メキシコ麻薬戦争 列伝
日本ではあまり報道されていませんが、メキシコの麻薬戦争はすさまじいものです。毎日人が殺されています。一人、二人の死者では記事にもなりません。殺された人が重要人物でないかぎり、最低でも二桁の死者が出ないとメディアには登場しません。
メキシコ麻薬戦争の犠牲者は2010年3月末現在で22,743人とされています。行方不明者や発見されていない死体のことを考えると、これよりはるかに多くの人が犠牲となっていると思われます。死者数の推移を年毎に見ると、06年62人、07年2,477人、08年6,290人、09年7,724人とうなぎのぼりに増加しており、今年2010年も最初の3ヶ月間だけで3,365人と1万人を超える勢いです。毎日30人が麻薬がらみの犯罪で殺されている計算です。
武器がすごい。ナイフやピストルといった古典的な凶器ではありません。最低でもAK47いわゆるカラシニコフ、機関銃からバズーカ、対空ミサイルまで飛び出します。最近では自動車爆弾まで登場しています。シュワルツネッガーやランボーの世界を地で行っています。
殺され方も尋常ではありません。殺す前の拷問は当たり前、殺した後はほぼ例外なく首を切断し、ばらばらにして橋げたにつるしたり、教会前の広場など人目につくところに投げ捨てます。大量のときはまとめて廃坑に投げ込んだり、強酸液プールで溶かしたりとひどいものです。
こういうニュースを聞いたり見たりするたびに、いったいこれはどうなっているんだ、誰と誰が、何のために闘っているんだと思うのですが、どうもその辺の報道がさっぱり見えてきません。
麻薬戦争は基本的にはカルテル同士の勢力争いです。それは麻薬の生産・流通・販売のルートを考えれば明らかなことです。生産は南米、消費は米国国内です。メキシコの役割は流通に過ぎません。しかし米国国境という高い壁があるために、その針の穴をうがつ作業が死活的重要性を帯びてくるのです。
麻薬の流通経路は、何十億ドルという富をもたらす「絹の道」であり、メキシコの国境沿いのフアレス、ティフアナ、マタモロスなどの町は天山山脈やタクラマカン砂漠などシルクロードの最大の難所を前にした中継基地なのです。たとえばサマルカンドであり、アルマアタです。これらの町を奪うことは、絹の道全体を支配することにつながるのです。
しかしそれだけで、メキシコ麻薬戦争が世界の耳目を集めるほどの規模に拡大していることを説明することはできません。その背景として、@数十億ドルという麻薬取引額とその使い先、Aコカイン原産地の南米と、メキシコ、そして最大の消費先である米国との国際関係、Bメキシコ政界の最深部での利権をめぐる抗争、さらにはCNAFTA下でのメキシコ市民経済の崩壊と貧困化、D数百万といわれる米国内の合法・非合法の移民社会などが立体的に絡まっている、という構図を理解しておかなければなりません。
上記のことを念頭に置きながら、麻薬カルテルの変貌を、とくにこの20年余りの相互関係の変化を列伝風にたどってみたいと思います。
各組織の紹介は主に英語版Wikipediaによっています。なにぶんにも闇の世界の話ですので、不確かだったり、後から判明したりということが多いようです。Wikiですら、事項ごとに記載が矛盾したりすることがあります。
第一章 ミゲル・アンヘル・フェリクス・ガジャルド
メキシコ麻薬カルテルのゴッドファーザー
@メキシコにおける麻薬ビジネスの幕開け
麻薬ビジネスの幕開けは1960年代後半のことである。ベトナム戦争が泥沼化し、兵士はマリフアナやLSDなどの麻薬に犯されるようになった。米国内にも麻薬が浸透し始めた。従来の公序良俗が揺らぎ始め、ヒッピーなどの風俗がマリフアナの流行と一体化した。かくして米国内に巨大な麻薬需要が生まれた。
メキシコにおける麻薬ビジネスもこの頃から大規模なものとなった。その創始者と目されるのがペドロ・アビレス・ペレス(Pedro Avilés Pérez)である。アビレス・ペレスは、マリフアナを売り物にシナロア州の麻薬ボスとして頭角を現した。米国に麻薬を密輸するために航空機を使用し始めたのも彼である。
ペドロ・アビレスは78年9月、連邦警察により射殺された。その後、組織はエルネスト・フォンセカ・カリージョに引き継がれた。ラファエル・カロはマリフアナとケシの栽培を始めた。
アビレス・ペレスが大規模麻薬業者の最初の世代であるとするならば、第二世代に当たるのがミゲル・アンヘル・フェリクス・ガジャルド、フォンセカ、ラファエル・カロ・キンテロである。これら後の大ボスたちは、アビレス・ペレスの組織で働く中で麻薬取引についてのすべてを学んだと口を揃えている。
A頭角を現したガジャルド
この第二世代の3人の中から頭角を現したのがミゲル・アンヘル・フェリクス・ガジャルド(Miguel Ángel Félix Gallardo)である。ガジャルドはメキシコ麻薬カルテルのゴッドファーザーと称されている。
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ガジャルドはもともとシナロア州警察の警官で州知事のボディーガードも勤めたが、みずから麻薬取引に手を染めるようになった。メキシコでは当たり前のコースである。
最初はマリファナとアヘンを米国へ密輸することを主要なビジネスとしていたが、まもなくコロンビアのコカイン・カルテルと関係を持つようになり、これがガジャルド・ファミリーの急成長をもたらすことになる。
1980年代はじめ、ガジャルドはメデジン・カルテルの帝王パブロ・エスコバルと知己を得た。ガジャルドはメキシコ経由の麻薬回廊を形成すべくエスコバルと交渉し、メデジン・カルテルとの間に太いパイプを作り上げた。
供給源を握ったガジャルドらは、米国国境につながる回廊(コリドール)地帯の、全ての違法な麻薬取引を仕切るようになった。そしてメキシコのすべての麻薬業者の支配者となった。いわばメデジン・カルテルのメキシコ代理店の総支配人となったわけである。当時はコロンビアのカルテルとメキシコの麻薬組織の間には、それだけの力の差があったことになる。
当時のコカインのメイン・ストリームは、カリブ海を経由しフロリダから東海岸へと展開して海上ルートだった。しかしこの海上ルートへの取締りが厳しくなるに連れて、メキシコ・ルートが見直されるようになった。メキシコのカルテルは地続きの強みを生かしてカリフォルニアやテキサスに進出して行った。
メキシコの麻薬密売組織は、すでに85年には、米国に入るヘロインの4割,コカインの3割を取り扱うようになるまでに至った。こうなるとただの代理店ではない。
BDEA捜査官殺害事件
日の出の勢いのカルテルを追った最初の試練がDEA特別捜査官エンリケ・カマレナ・サラザールの活動だった。
メキシコからのコカイン流入に神経を尖らせた米国は、メキシコの政府や司法当局に対して不信感を抱いた。麻薬取締局(DEA)がメキシコ領内に入り独自の調査活動を行うようになった。寛大なメキシコ当局に較べると、米国の捜査当局は峻烈だった。
機密漏えいを恐れたDEAは当時、メキシコ政府の許可なしで独自の捜査を行なっていた。84年、グアダラハラに駐在するカマレナの情報に基づいて、大々的な麻薬摘発作戦が実施された。
450人のメキシコ兵がヘリで出動し、大規模なマリフアナ農場()を破壊する。この農場だけで年商80億ドルのマリフアナが生産されていた。カマレナの名は全米に知れ渡るようになった。
それはメキシコ国内でのカルテルとDEAとの摩擦を激化させた。カルテルは躍起になって捜査の進展を抑えた。市警、州警、連邦警察、さらに司法当局まで巻き込んだ反DEA工作が展開された。
警察はカルテルに恩義を感じたのか、DEAとの闘いを自ら買って出た。86年8月にはハリスコ州警察がDEAの秘密捜査員を逮捕し拷問にかけた。このときは米国の抗議により警官11人が一時停職処分を受けている。
こうした雰囲気の中で事件は発生した。85年2月7日、カロの命令によりカマレナ誘拐作戦が実行された。車で移動中のカマレナは、運転手もろとも拘束された。カマレナは拷問の上殺害され、1ヵ月後に遺棄死体が発見された。これはいわばカルテルの闘争宣言であった。
アメリカはこの事件に憤激した。メキシコ駐在の米大使は、「米国に入るヘロインの4割,コカインの三割がメキシコ国内で製造ないし経由・輸入されたもの」と暴露した。
連邦警察もさすがに逃げ切れなくなった。85年、カロとフォンセカがDEA捜査官殺害容疑で逮捕された。どういうわけかガジャルドはこのとき逮捕をまぬがれた。そしてカルテルを唯一仕切るボスになっていった。
ガジャルドが「帝王」となる経過については異説がある。アビレス・ペレスを引き継いだこの組織は、当初よりグアダラハラ・カルテルを名乗っていた。組長はエルネスト・フォンセカ・カリージョで、ナンバーツーがカロ、ガジャルドは上の二人がDEA捜査官誘拐・殺害事件で逮捕された結果、繰り上げ当選しただけたとしている。
Bカルテルの分割支配
1987年に、ガジャルドは一家の幹部を引き連れ、シナロアからメキシコ第二の都市グアダラハラに進出し本拠を構えた。今日ではこの最初のカルテルをグアダラハラ・カルテルと呼んでいる。
ガジャルドはこれまで独裁的に仕切ってきた麻薬取引ビジネスを分割することに決めた。巨大化した非合法ビジネスはそれ自体が危険である。いつ手入れを食らっても不思議はない。小分けしたほうが取締りを受けても被害が少ないと踏んだからである。もちろん、経営効率から考えても分社化したほうが効率的であろう。
ガジャルドは「ゴッド・ファーザー」よろしく、一切を取り仕切った。保養地アカプルコの一軒の家に全国の麻薬組織の最高幹部が招集された。彼は各組織のシマと縄張りを指示した。
このアカプルコ会議がいつ行われたのかは定かでない。もし分かれば、その時点で追補したい。
ガジャルドが分割したカルテルを託したのは、当時あまり有名になっておらず、DEAにも知られていない連中だった。
ティファナ回廊は、アレジャーノ・フェリクス兄弟へゆだねられた。シウダ・ファレス回廊は、カリージョ・フエンテス一家が任された。ラファエル・カロの弟ミゲル・カロ・キンテロは、ソノーラ回廊地帯を運営する。(ソノラ・カルテルの影響力は01年、ミゲルの逮捕により、ほぼ消失する)
マタモロス(タマウリパス回廊地帯)の権利はそっくりファン・ガルシア・アブレゴにゆだねられた。この地帯は後にガルフ・カルテルの支配圏となった。
当時無名だったホアキン・グスマン・ロエラ(エル・チャポ)とイシマエル・サンバーダ・ガルシアは、元の本家である太平洋の海岸活動を引き継ぐこととなった。これが本家シナロア・カルテルとなっていく。(一説ではサンバダがシナロアの権益を"奪い取った"と記載されている)
Cカルテルと警察の癒着
こうしてカルテルの名にふさわしい大犯罪組織のトップに立ったフェリクス・ガジャルドだが、国家・司法権力に対しては対決姿勢をとることなく、一貫して低姿勢を保った。政治家は金と引き換えに彼に庇護を与えた。
カルテルは麻薬取締りに責任を持つ警察組織を味方につけるべく浸透を図った。例えばハリスコ州の麻薬密売組織のボスは,州の警察官ほぼ全員に賄賂を贈っていたと暴露している.
メキシコ・シティー南方に位置し、後にベルトラン・レイバのフランチャイズとなるモレロス州はカルテルと公安権力との癒着の典型で、州知事が州警察官全員を収賄の罪で解雇するという状況にまで至っている.
モレロス州の腐敗は度し難いレベルまで進んでいた。2004年にはモレロス州警察長官ら幹部がカルテルによる誘拐・車両強盗などを隠蔽・保護していた容疑で逮捕された。さらに捜査を進めた連邦捜査局は、モレロス州の副検事長を麻薬組織との関連の疑いで逮捕した。捜査が進むにつれ容疑は州知事に波及した。エストラーダ知事が麻薬絡みの殺人事件に関与したことを示唆する録音テープが公開された。州議会は全員会議を開きエストラーダ知事を罷免した。
Dガジャルド逮捕と第一次分裂
フェリクス・ガジャルドは、まだ「ドンの中のドン」としてすべての組織を統率するつもりだった。しかし1989年4月8日、彼はDEA捜査官殺害の共謀の罪で、多くの幹部たちとともに逮捕されてしまった。しかし刑務所の中にあっても、彼はメキシコの主要麻薬業者の一人としての地位を保ち続けた。携帯電話によって彼の組織を維持したのである。
政府はガジャルドが獄中からカルテルを支配していることを知り、新たな対策を迫られた。やがて彼のために最大警備の刑務所が新設され、ガジャルドはそこに移送されてしまった。もはや獄中からの指示は不可能となった。
残されたグアダラハラ・カルテルの幹部たちは金銭欲と権力欲をあらわにし、勢力拡大を狙って互いに争うようになった。回廊地帯を担うそれぞれの地域グループは、自らの供給源や米国内の売りさばき網を確立し、独立した麻薬カルテルとしての体裁を整えるようになった。
ここからがメキシコ麻薬戦争の始まりである。
第二章 ティフアナ・カルテルの巻
@アレジャノ・フェリクス兄弟
最初の分裂はティフアナのアレジャノ・フェリクスによってもたらされた。7人の兄弟と4人の姉妹からなるアレジャノ・フェリクスはガジャルドの甥にあたる。アカプルコ会議では、アレジャノ・フェリクスは4つの回廊の中で当時もっとも収益の上がるティフアナ回廊の権利を与えられた。
ティフアナは西海岸の国境の町、北側のカリフォルニア州サンディエゴとの間にはさしたる障害もなく無数の道路網が発達している。国境の北側にも多くのメキシコ人が暮らしており、スペイン語がそのまま通じる世界である。アレジャノ・フェリクスの商売は大いに利益を上げた。
ガジャルドは、ゆくゆくはアレジャノ・フェリクスに跡目を継がせたいと考えていた節がある。1992年、獄中にはあったが未だ指揮権を失っていなかったガジャルドは、ティフアナで稼いでいた甥たちにハリスコ州都グアダハラのシマを与えようとした。
Aエル・ゲーロの巻き返し
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Héctor Luis El Güero Palma Salazar |
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しかし当時グアダラハラで急速にのしてきたパルマ(エル・ゲーロ)一家はこの決定に従わなかった。その背後にはシナロアのエル・チャポ・グスマンがいた。
パルマはガジャルドのボディーガードを勤めた経験がある。麻薬密輸作戦で失敗した後、組織からパージされたが、エル・チャポと手を組んでシナロア・カルテルを創設し、闇の世界に復活した。
彼はガジャルドに対し恨みがあった。1978年、アリゾナで麻薬密輸で逮捕され懲役8年の実刑となったが、妻は愛人と駆け落ちし700万ドルを持ち逃げした。その裏にガジャルドの策動があったといわれる。
愛人は子供二人を殺害し、妻の首をパルマの元に送り届けた。パルマは愛人の子供3人を殺害し、その背後にいたガジャルドの弁護士をも殺害し復讐を果たした。
92年の11月8日、アレジャノ・フェリクス兄弟らは、ハリスコ州プエルト・バヤルタのディスコで遊んでいた。そこにパルマ一家が突入し、銃を乱射した。8人の仲間がその場で撃ち殺された。
アレジャノ・フェリクス兄弟は奇跡的にその場を逃れることができた。逃亡を手引きしたのはデビッド・バロンだという。バロンはアメリカ人。サンディエゴを拠点とするストリート・ギャングで、アレジャノ・フェリクスの用心棒を務めていた。
Aポサダ枢機卿の殺害
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Cardinal Juan Jesús Posadas Ocampo |
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アレジャノ・フェリクス兄弟は報復を誓い、黒幕のエル・チャポを暗殺しようと計画を練った。そしてグアダラハラ空港にエル・チャポがやってくるという情報を得た彼らは、デビッド・バロンの率いるローガン・ハイツ・ギャングにその実行をゆだねた。
1993年5月24日、ローガン・ハイツのスナイパーが空港駐車場でエル・チャポを待ち伏せた。そこにやってきたのが白のマーキュリー・グランド・マーキスという車だった。このけばけばしいアメ車は当時麻薬王たち御用達の車だった。
スナイパーは白のマーキュリー・グランド・マーキスを狙えと指令されていたから、それに忠実に従った。車に近寄ると至近距離から14発の銃弾を打ち込んだ。この攻撃で民間人6人が死亡した。
しかしこれはまったくの誤認攻撃で、エル・チャポは傷ひとつ負わなかった。身代わりとなって殺されたのはグアダラハラのカトリック最高指導者ファン・ヘスス・ポサダ・オカンポ枢機卿(Cardinal Juan Jesús Posadas Ocampo)だった。
というのが警察の説明である。
しかしこれには反論もある。もともとオカンポ枢機卿は麻薬業者を厳しく非難していた。当然、グアダラハラを本拠とするカルテルにとっては面白くない。
またオカンポはそのとき長い黒い日常法衣そして、大きい佩用十字架を着ていた。体型、外見ともエル・チャポとは似ても似つかない。その人物をわずか60センチの距離から誤認銃撃するだろうか、というものである。
ルイ15世が非効率的に支配する3つの兆候は何だった
Bティフアナ・カルテルの栄華と没落
その後アレジャーノ・フェリクスはティフアナに拠点を構え、麻薬取引を続行した。これは後にティフアナ・カルテルと呼ばれるようになる。今でこそセタスやラ・バービーに比べればかわいいものだが、90年代には、このカルテルは暴力性が極めて高い組織として知られていた。
中でも有名なのが1998年9月17日のバハ・カリフォルニア州エンセナダでの18人殺害事件である。殺害を命じたのは5男ラモンであったが、その彼も2002年2月10日にはシナロア州マサトランで警察との銃撃戦で殺されてしまう。
ティフアナ・カルテルの特徴はサンディエゴと町続きということにあり、カルテル自らが麻薬の売りさばきも直接行っていた。そのため利益も多いが警察の取り締まりも厳しい、ティフアナは米国側の集中的な攻撃を受けることになる。
2007年1月には国境の警備強化を求めるアメリカ側の強い要請を受けて、メキシコ軍部隊がティファナに派遣された。部隊はティフアナ・カルテルに協力し、その武装闘争を担っていた不正警官の洗い出しを開始した。
組織の弱体化を見たシナロアのサンバダは01年、ティフアナ総攻撃をかけた。エル・テオと呼ばれる武闘派幹部をはじめ、部下の多くはシナロアの下に走った。
90年代からの十数年の間に長兄フランシスコ・ラファエル、次兄ベンハミン、次々に兄弟たちが逮捕されていった。2006年8月には、南カリフォルニ沖にボートで出ていたハビエル・アレジャーノ・フェリクスが、米国沿岸警備隊によって逮捕された。
2008年3月、シウダ・フアレスと連動してティフアナの闘いも激化した。ティフアナでの死者は年初より2ヶ月の間に200人近くに達した。
10月26日最後に残された4男エドゥアルド(通称エル・ドクトル)も、メキシコ軍との撃ち合いの後逮捕された。所持金は1万ドルしかなかったという。
逮捕・殺害によりティフアナ・カルテルは四分五裂となった。資金の枯渇したギャングたちは誘拐・身代金ビジネスに転向するようになった。
現在はアレジャーノ兄弟から見て甥にあたるルイス・フェルナンド・サンチェス・アレジャーノが辛うじて組織を維持している状態のようである。
Cテオドロ・ガルシア
テオドロ・ガルシア・シメンタル(エル・テオ)は、ティフアナ・カルテルの有力ボスであった。
カルテルの中でも武闘派として勇名をはせたが、サンチェスの跡目相続に異を唱え、その後シナロア・カルテルのサンバダ一家の傘下に入った。
09年1月、逮捕された部下が、これまでに約300人の遺体を薬液で処分したと自白し衝撃を呼んだ。
犠牲者は苛性ソーダの樽に投げ込まれ、溶けてなくなったという。それはティファナをメキシコの最も危険な都市のうちの1つにした恐怖作戦の一環であった。
2010年1月12日火曜日、バハ・カリフォルニアのラパスで逮捕された。ガルシアの逮捕によってつくられる真空はより多くの暴力を活気づけることになった。
第三章 第一次シナロア・カルテルの巻
@カルテルの再編
カルテルはもはやガジャルドの言うがままにはならなかった。アレジャノ・フェリクスを追い出したカルテルは、エル・チャポ暗殺未遂事件を契機にガジャルドの支配から決別した。
情勢は決して明るくはなかった。もっとも利益の上がる西海岸はティフアナ・カルテルのものだった。メキシコ湾岸からテキサス州と接するタマウリパス州・ヌエボ・レオン州にかけては、ガジャルドから権益を委託されたファン・ガルシア・アブレゴが独立の動きを見せていた。これはまもなくガルフ・カルテルとしてシナロアを凌ぐ勢いとなる。
残されたメンバーはふたたびシナロア州の州都クリアカンに拠点を移した。シナロア・グループには「黄金の三角地帯」が残されていた。黄金のトライアングルとはシナロア、ドゥランゴ、チワワの三州を基盤とし、シウダ・フアレスを中心とする南テキサスへのアクセスを意味する。この国境地帯は荒涼とした光景が続く無人の砂漠地帯である。物資と人員を受け入れるアメリカ側のアクセスさえあれば、越境はきわめて容易である。
グループはガジャルド一家の幹部エル・ゲーロ・パルマを中心に、エイドリアン・ゴメス・ゴンザレス、エル・チャポらによって運営された。
このグループは「太平洋カルテル」とも呼ばれる。メキシコの太平洋岸から始まったからである。コリーマ・カルテル、ソノーラ・カルテル、ミレリオ・カルテル、グアダラハラ・カルテルは、シナロア・カルテルのブランチであると考えられている。シウダ・フアレスもそうしたブランチの一つであったが、回廊の中核拠点としてその後急成長していく。フアレス・カルテルについては後に詳述する。
ティフアナ・カルテルが昇竜の勢いとなったのに対し、シナロア・カルテルにはこのあとしばらく雌伏の時期が続く。この時期、当局の取締りがシナロアに集中したからである。エル・チャポが1993年6月9日にグアテマラで捕らえられ、メキシコに引き渡された。1995年6月23日には「組長」のパルマが、搭乗中のジェット機が不時着し、メキシコ軍に逮捕された。
とは言え、シナロアがガジャルドの本流を継ぐ最大カルテルであることに変わりはない。シナロア・カルテルは人質誘拐、委託殺人、密入国の口入れ稼業には手を出さず、麻薬の米国への密輸と販売をもっぱらの"生業"とする純粋な業者である。取り扱うのはコロンビアのコカイン、メキシコのマリファナ、メタンフェタミン、それにメキシコや東南アジアのヘロインである。
これはウィキペディアの記載であるが、シナロア・カルテルの"純粋"さにはかなり疑問がある。なんでもありのロス・セタスと比較した相対的なものであろう。
シナロアの最大の強みは、コロンビアなどコカイン生産地との太いパイプを握っていることである。メキシコまでの輸送は「エレーラ組織」といわれる組織が担当し、コロンビアのカリ、メデジンなどの麻薬取引グループから受け取った数トン単位のコカインをグアテマラまで運搬している。
運搬に使われるのは、独自に開発した「潜水艦」である。これは純粋の潜水艦ではなく吸気・排気口を海上に突き出した「半潜水艦」であるが、レーダーによる捕捉は不可能で、航空機による探査も困難という優れものである。
その最新改良型は、全長30メートル。5〜6人乗りで、10〜12トンの貨物を積載できる。ディーゼル・エンジンを2基搭載し、潜望鏡や空調システムも備えているという。
シナロア連合はメキシコシティー、テペク、トルカ、グアダラハラ、そしてシナロア州の大部分を支配するほか、17の州に影響力を保持した。すでに1980年代後期に、米国麻薬取締局はシナロア・カルテルがメキシコ最大の麻薬密輸組織であると考えていたが、90年代半ばまでに、それはメデジン・カルテルの最盛期の規模に匹敵するに至った。
Aエル・チャポの紹介
ここまで読んできた読者には、エル・ゲーロ・パルマとエル・チャポ・グスマンの関係が分からないで混乱していると思う。エル・チャポこそはメキシコ麻薬戦争の変わらぬ主役であり、この男を回転軸として歴史が回っていたのだから、少し詳しく見ておこうと思う。
エル・チャポことホアキン・グスマン・デセナはシナロア州の片田舎の出身。小農の倅だ。チャポとはチビのことだが、168センチあれば、メキシコ人としては並である。フォーブス誌は世界の有力者番付の60位に位置づけている。また富豪番付では937位につけている。しかしこれは悪い冗談であろう。
彼は幸運というか、麻薬業界の草分けペドロ・アビレスの甥だった。それで「これは面白いやつだ」というので、エル・ゲーロことパルマ・サラザールが子分に取り立てた。これが彼のキャリアのスタートだ。ただ、すでにペドロ・アビレスは死んでいるので、七光りというわけには行かない。彼はみずからの努力でのし上がって行った。
最初の仕事はコロンビアからコカインを運ぶことだった。この仕事が上出来だったために、エル・チャポはパルマを飛び越してガジャルドの直接指揮下に入り、輸送部門の総責任者となった。逆にエル・ゲーロは密輸作戦をしくじってガジャルド一家から破門されていた。
カルテルが分裂しティフアナと争う頃には、すでにエル・チャポがシナロアの事実上の盟主となっていたのであり、かつての親分であるエル・ゲーロを形だけ立てていたのである。だからアルジャーノ・フェリクスはエル・チャポをディスコ襲撃事件の首謀者と見て、彼に報復攻撃の焦点を合わせたのである。
彼のビジネスマンとしての能力が遺憾なく発揮されたのはこの頃だった。コリマ・カルテルという小さなカルテルがあって、アメスクア兄弟が運営していた。覚せい剤の密輸を取り仕切っていたが、98年に手入れを食い崩壊した。これをエル・チャポが任せられた。エル・チャポは原料を中国、タイ、インドなどから密輸、各地にラボを作るなど規模を拡大し、覚せい剤をコカインと並ぶ主力商品に仕立て上げたた。実務に当たったイグナシオ・コロネル(ナチョ)は「クリスタル・キング」と呼ばれるようになった。
引き続きコカインも商っていたが、これは僚友のエル・マジョことイスマエル・サンバダに託された。つまりエル・チャポは獄中にありながらコカインと覚せい剤を一手に仕切る「ボスの中のボス」になっていたのである。
以上はおおむねwikipediaからの引用であるが、wikipediaの文章は Beith, Malcolm (2010). The Last Narco という本からの引用らしい。興味のある方はそちらに当たっていただきたい。
Bカルテル成長の要因
シナロア・カルテルが分裂しながらも全体として急成長を遂げた背景に、94年に発効した北米自由貿易協定(NAFTA)をあげなければならないだろう。
この協定によりメキシコと米国の国境の壁は低くなり、麻薬密輸も容易となった。しかし主要な側面はメキシコ農業や国内産業の崩壊であろう。多くのメキシコ人が職を失い土地を失い、家族を食わせるための糧を失った。NAFTAが発効した95年から96年にかけて、米国への密入国者は急増した。不法在留者は総計で600万人と推定されている。
メキシコ政府によると、いまも毎年約40万人のメキシコ人が、アメリカに出ているとされるが、アメリカ側の発表はこれよりはるかに多い。米国土安全保障省によれば、国境警備隊が摘発した不法移民は毎年100万人を越える。彼らはカルテルの手引きで潜入し、受け入れ先を割り当てられ、カルテルの指示の下に麻薬密売網を形成する。アメリカ当局の取締りが厳しくなればなるほど、その結束も固くなる理屈である。
米国内の麻薬販売ルートは飛躍的に拡大し、組織の力もそれまでとは比べ物にならないほどに強化された。麻薬取引額は年間1兆円規模と見られる。(ちなみにJTの年間売り上げは約6千億円)
第四章 ガルフ・カルテルの巻
@ガルフ・カルテルの勃興
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An undated file photograph drug lord Juan Garcia Abrego, top right the former head of the Cartel, Juan Nepomuceno Guerra, left |
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シナロア・カルテルの停滞を前に、猛烈な勢いで勢力を拡大したのがガルフ・カルテルである。
ガルフ・カルテルはもともとガジャルドが作りあげた組織とは無関係である。創始者のネポムセノ・ゲラ(NepomucenoGuerra)は、1930年代にウィスキーを密造しメキシコ湾ルートでアメリカへ密輸したというから、由緒正しいギャングである。
しかしこの爺さん、相当血の気が多いようだ。1970年代に入ってから、彼は再び米国への密輸ビジネスを活発化させた。その中にはマリフアナとヘロインもふくまれていた。
その甥がフアン・ガルシア・アブレゴ(通称エル・ムニェコ)である。タマウリパス州マタモロスの「ラ・プエルタ」牧場に生を受けたアブレゴは、ゲラの薫陶を受けながら次第にボスとしての地位を固めていった。
1980年代に入って、アブレゴははるかに実入りの良いコカイン・ビジネスに手を広げた。これには叔父であるゲラが長年にわたって築いてきた政治的人脈が大いに役立ったという。
コカイン入手のためにガジャルドの下に加わったアブレゴは、カルテルの分割に伴いマタモロス回廊を手に入れると、その勢力を急速に拡大させた。彼のグループはガルフ・カルテルと呼ばれるようになり、シナロア・カルテルを凌駕するまでに成長していった。
1995年、FBIは「10人の最悪のお尋ね者」(TenMostWantedFugitives)を発表した。アブレゴは、麻薬密売業者としては初めてそのリストに搭載されるという栄誉に浴した。
しかし翌96年1月、彼は捕らえられ米国に引き渡された。現在彼はコロラドの連邦最大警備刑務所に収監され、11回の生涯分の刑期(elevenlifeterms)を務めている。
Aコロシオ暗殺事件
アブレゴが絡んだ最大の事件がコロシオ暗殺事件である。1994年はじめ、当時与党のPRI(制度革命党)は次期大統領候補にコロシオを選出した。コロシオ候補は政治改革の必要を強調した。「過剰な権力は諸悪の根源である.権力の集中を排除し真の三権分立を推進する」と宣言した.これが当時の大統領サリナスの取り巻き一派には面白くなかった。
94年3月、コロシオはティフアナ市を遊説中に腹部と頭部に銃弾を浴び殺された。州警察当局は現場に居合わせた労働者を逮捕したが、連邦検察はPRIの妨害を押し切って独自の捜査を進めた。
後に明らかになったところでは,サリナスの兄ラウル・サリナスがコロシオに資金提供を持ちかけた。サリナスの兄といってもただの兄ではない。彼自身が与党PRIの幹事長だった。しかしコロシオはこの誘いを断った。
これを怒ったラウル・サリナスはガルフ・カルテルに殺害を依頼したとされる.一説にはサリナス自身がガルフ・カルテルの代弁人であったともいわれる。(この辺のいきさつは私の年表を参照してください)
シナロア・カルテルが地方レベルの行政・司法当局を抱き込んだのに対し、ガルフ・カルテルは政権与党の幹事長とつるんで影響力を拡大した。ガルフ・カルテルがシナロアを抑えてメキシコ最強の麻薬組織にのし上がっていたことは、このことからも推測される。
アメリカはガルフ・カルテルを主要な標的とし、フアン・ガルシア・アブレゴを逮捕した。コロシオ殺しの真相が明らかになったのも、アブレゴの供述があったからだ。
Bアブレゴからオシエルへ
彼が逮捕された後、オスカル・マレルベ・デ・レオンがボスとなったが、そのレオンもまもなく逮捕される。幹部の間で跡目争いが起き、セルヒオ・ゴメスがいったんボスに就任するが、そのゴメスも1996年4月にもう一人のゴメス、サルバドル・ゴメスにより暗殺されてしまった。
サルバドル・ゴメスの時代は3年間続いたが、内紛は絶えることがなかった。そして99年7月、サルバドルもまた暗殺された。サルバドル・ゴメスを暗殺しボスの地位についたのはオシエル・カルデナス・ギリェンだった。
オシエルを有名にしたのはDEAとの対決事件である。99年、カルテルの情報提供者がメキシコ国内でFBIとDEAに捕らえられた。
彼を護送するチームがマタモロスを通過するとの情報を得たオシエルは、道路で待ち伏せして来合わせたFBIとDEAの車両を取り囲んだ。そして情報提供者の解放を要求した。FBIとDEA職員は情報提供者の解放を拒み、緊張したときが流れたが、結局解放に応じた。
この作戦はオシエルにとって高いものについた。米国政府は激怒し、オシエルを是が非でも逮捕するようメキシコ政府に強い圧力をかけた。当時すでにPRIは政権の座から転げ落ち、親米保守のPAN(国民行動党)に代わっていた。もはやアメリカに抵抗するものも、ガルフを庇護しようとするものも誰もいなかった。
2003年3月、オシエルはマタモロスで銃撃戦の末捕らえられた。彼はペナル・デル・アルティプラノ高基準連邦刑務所に収監された。
Cシナロアによる攻勢
オシエルの逮捕後、組織の弱体化を見たシナロアはフアレス・カルテルとの確執をいったん保留し、ガルフに対して攻勢に出た。この頃、当局の取り締まりもガルフ・カルテルに集中していた。
04年半ば、連邦司法警察(AFI)と連邦予防警察(PFP)が共同作戦による集中取り締まりを開始。軍も作戦に協力の姿勢を示した。10月に連邦警察部隊がガルフ・カルテルのアジトを襲撃、組織ナンバー・ツーが逮捕された。行動部隊ロス・セタスの隊長も、5日後には捕らえられた。
オシエルの逮捕後、ガルフカルテルは二人の幹部アントニオ・エセキエル・カルデナス・ギリェンとホルヘ・エドゥアルド・コスティージャ・サンチェスが指揮を執っているが、弱体化は否めないものとなっている。
なおコスティージャは元マタモロス市警の警察官。オシエルにより副長に抜擢された人物である。
第五章 シナロア・カルテルの復権
@暴力傾向を強めるカルテル抗争
折からのNAFTA不況で職のない若者はごろごろしている。貧困と教育の劣化が一気に進行した。先住民系の識字率は10年間で82%から68%に低下した。南部ではさらに低くゲレロ州では50%を切る。
そんな構造不況の中でこれだけのおいしい商売に人が群がらないわけはない。一攫千金の夢がメキシコ中に拡大した。
一方では、米国内でコカインの供給が潤沢となったことで、コカイン使用は手軽に楽しめる快楽となり、消費は一気に拡大した。だれでもコカイン密売の小商いが始められるようになった。
プッシュ要因もプル要因もそろった一大成長産業が出現したのである。そうなれば誰がその産業を支配するかをめぐって闘争が激化するのは当然。軍資金もたっぷりある、兵隊は掃いて捨てるほどいるとなれば、戦争の舞台は大掛かりなものとなる。
2000年を境に戦死者の数はうなぎ上りとなった。05年までの5年間で1千名以上が殺されている。
ペドロはどのような現実の世界にあった?
Aエル・チャポ・グスマンの華麗な復帰
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暴力化の先陣を切ったのは、ほかならぬシナロア・カルテルだった。
2001年1月19日、エル・チャポは洗濯物の中に隠れてラ・パルマ最大警備刑務所からの劇的な脱獄に成功した。
刑務所職員の内通者が用意した洗濯物の収集カートに潜り込んで、通用口に出た後、別の車に乗り移り走り去ったのである。
彼は脱獄のために78人の関係者に総額250万ドルの賄賂を用いたという。
エル・チャポは部下に「血の同盟」(LaAlianzadeSangre)を誓わせ、再びシナロア・カルテルの指揮を始めた。ここからシナロア・カルテルの猛烈な巻き返しが始まる。
エル・チャポ復帰後のシナロア・カルテルは、これまでの連合体とは、作戦の規模においても凶暴性においても様相を異にしていることから、「グスマン・ロレア・カルテル」とも呼ばれる。
生産地からのルートを握っているシナロア・カルテルは、米国へのアクセス・ルートと米国内での販売ネットの確保に乗り出した。西海岸をティフアナ・カルテルに、マタウリパス州を中心とするメキシコ湾岸沿いルートをガルフに押さえられたシナロアは、その中間地点であるチワワ州シウダ・フアレスを進出拠点に定め、カリージョ・フエンテス一家が仕切るフアレス・カルテルとの連携を強めた。
2005年、シナロア・カルテルの行動隊長ベルトラン・レイバ兄弟が、アリゾナ州と国境を接するソノラ州、チワワ州での麻薬取引を支配しようと進出してきた。ベルトラン・レイバは、2006年までにアリゾナ国境の528kmの国境線から全ての競争を除去した。彼らは州政府官僚に贈賄攻勢をかけ、支配権を確かなものした。
アリゾナ州との国境線を横切るように麻薬密輸用のトンネルが掘り進められた。そこからさらにアリゾナ、カリフォルニア、テキサス、シカゴ、ニューヨークでの流通細胞に輸送するルートが整備された。
アメリカ司法長官の証言によれば、1990年から2008年にかけて、シナロア・カルテルは米国に200トン近くのコカインと大量のヘロインを密輸し配布したとされる。アトランタがアメリカにおける主な集配センター、マネーの集中点として用いられた。シナロア・カルテルの存在はアトランタ地域に冷酷な暴力を持ち込んだ。
Bシナロアとガルフの激突
2003年、ガルフのオシエルが逮捕された。これはシナロアにとって勢力を拡大する絶好のチャンスだった。シナロアは麻薬密輸の40%を担うヌエボ・ラレード回廊の支配を狙い200人の武装集団「ロス・ネグロス」を派遣した。
最初の戦闘は04年秋、両者の中間地帯タマウリパス州で始まった。その前から地下での衝突はあったようだ。シナロアと結んだチワワ州のフアレス・カルテルは、武装集団を組織しガルフに対する襲撃を繰り返していた。シナロア・カルテルもこれに呼応して「ロス・ペロンズ」と呼ばれるギャング団を雇い戦闘を開始した。
フアレス・カルテル幹部の自宅からは12体の腐乱死体が発見された。この大量殺害の犯人はどうもチワワ州検察庁の幹部らしい。報道によれば州検察庁の指揮官クラス以下16名が関与していたとされ、内4名が行方不明となっている。
C政界の地殻変動
シナロアの進出、ガルフの後退という変化の背後には、メキシコ政界の激動がある。02年まで80年にわたり一党独裁を続けてきたPRI(制度革命党)が敗北し、もうひとつの資本家政党PAN(国民運動党)のフォックスが政権を握ったのである。
両党ともに保守政党であることに変わりはないのだが、PRIは形だけでもメキシコ革命の伝統を引き継いだ政党であり、反米自主のポーズをとり続けてきた。これに対しPANはキリスト教と家族愛を説く保守政党であり、同時にマキラドーラ(関税自由地帯)の新興資本家を基盤に親米路線を掲げていた。
もともとガルフはPRI党、とくにサリナス派とつるんでいたのだが、PRIが政権の座を滑り落ちると、政界の後ろ盾を失ってしまった。04年には、タマウリパスのカバソス州知事がガルフとの関係を暴露され、辞任に追い込まれた。
ヌエボ・レオン州モンテレーを中核都市とする北東部諸州は、全体としてフォックス大統領の与党PANの地盤であり、ガルフの拠点タマウリパス州のみがPRI出身知事であった。ヤクザといえども、中央政界とあまり密着しすぎると良いことはないというのが教訓である。
第六章 ロス・セタスの巻
@セタスの登場
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Arturo Guzmán Decena fundador de los Zetas |
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セタスこそはメキシコ麻薬戦争史上を血で染めた張本人であり、血まみれの主役である。DEAはメキシコで最も凶暴な準軍事的組織だと断じている。
ロス・セタスは倫理観のかけらも持ち合わせていない。誘拐、委託殺人、恐喝、資金洗浄、密入国支援など、種類を問わず無数の犯罪活動を行う。そのやり口は容赦なく、しばしばグロテスクな凶暴性で彩られている。
もともとセタスを創設したのは前のガルフ組長オシエルである。彼は武力組織の強化を狙って「空挺グループ」(GAFE)の元隊員に声をかけた。
このGAFEという組織は、対ゲリラ戦向けに特化したメキシコ軍エリートの特殊部隊で、麻薬カルテル・メンバーを発見・逮捕するために編成された。隊員は米州軍事学校に派遣され、対ゲリラ戦の特別訓練を受けた。人の命を虫けらのようにあつかう冷血思想も、このときに身につけたものであろう。
米州軍事学校はフォート・ブラッグ(ノースカロライナ州)にあり、米国、フランス、イスラエルなどの専門家によって対ゲリラ活動の専門軍事訓練を授ける。そこでは迅速な配備、空中からの攻撃、狙撃、待伏せ、小グループ作戦、情報収集、防諜技術、囚人救出、暗号通信などの訓練を受ける。拷問や死体を切り刻むなど相手に恐怖を与える心理作戦なども教授されているであろうと思われる。
オシエルは最高の人材を獲得できた。GAFEの元隊長アルトゥーロ・グスマン・デセナ大尉である。グスマンはただちに部隊の編成に取り掛かった。メキシコの政府の給料よりはるかに高額の報酬を提示したグスマンは、元の同僚や部下など30人あまりのGAFE隊員を連れ出すことに成功した。
ここにメキシコ史上最強・最悪の殺人部隊が誕生したのである。
A「セタス」の由来
セタスのセタは"Z"のスペイン語読みである。いかにも特殊部隊らしい名称で、グスマンが自ら名づけたものだという。
当時グスマンは連邦司法警察に属していた。メキシコの連邦司法警察の高級将校は無線コードを持っている。司令部将校のイニシャルは「Y」であり、ニックネームはヤンキースである。
これに対し市街地=前線を担当する将校のラジオ・コード「Z」であった。そしてグスマンはそのトップ、すなわち「Z1」であった。このようにして彼らは自らを"Z"(スペイン語でセタス)と名づけたのである。
創設期の参加者は31人で、司令官はアルトゥーロ・グスマン・デセナ(Z-1)、へスス・エンリケ・レホン・アギラール(Z-2)、エリベルト・ラスカノ(Z-3)の3人だった。
B恐るべき戦闘能力
彼らは特殊部隊の武装服を着用し、ケブラー耐弾ヘルメットを着装している。(ケブラーは引っ張り強度に優れた繊維で、防弾チョッキにも利用されている。繊維を何層にも重ねたヘルメットは、高速飛翔物の進入をくい止めることを可能にしている)
ロス・セタスが地元警察よりはるかに高い戦術レベルで作戦を実施していることはよく知られている。兵器はAR-15、AK-47ライフル、MP5軽機関銃、0.5口径機関銃、手榴弾ランチャー、地対空ミサイル、ダイナマイト、そしてヘリコプターまで含まれる。
セタスの登場に衝撃を受けた米政府は、「メキシコの犯罪者は驚くほどの装備を持ち、時には警察の装備を使用する。公的な秩序に責任を持つべき当局者が犯罪に関連しているかもしれない」との警告を公表した。
彼らの強力さはその情報収集能力の高さにあるといわれる。ディレクシオン(司令部)は、およそ20人からなる通信専門部隊である。最新の盗聴器材を駆使し、自動車の追跡と確認、妨害電話などを行う。複雑・高難度の作戦では、司令部自ら誘拐・処刑を実行することもある。
司令部の下にはロス・アルコネス(鷹)と呼ばれる密輸経路の監視組織があるが、ラ・ベンタナス(窓)というバイク乗りのチンピラ組織、ロス・レオパルドス(豹)という売春婦からなる情報収集組織なども配置されているという。
彼らの拠点であるタマウリパス州ヌエボ・ラレドでは、町をいくつかに分割・管理し、空港、バスステーション、大通りのような外来者の到着場所には監視所が置かれている。ロス・セタスは組織防衛のために細胞のような構造を採用した。情報を制限し、組織のどんな人間も同僚を知ることがないようにするためである。
Cセタスがガルフの苦境を打開
ロス・セタスの役割は、すぐに広げられた。借金の徴収、コカイン供給と麻薬取引のルート(日本では"シマ"と呼ばれる縄張り地域はカルテルでは"プラサ"(広場)と呼ばれる)の確保、そして敵を処刑することである。
2003年にガルフ・カルテルのボスであるオシェル・カルデナス・ギリェンが逮捕された。シナロアとの戦いで劣勢に追い込まれたガルフ・カルテルは、頼みの綱「ロス・セタス」を動員し反攻に出た。
戦いは激しいものだった。グスマン・デセナ(Z1)は、すでにオシエル逮捕前の2002年11月に、レストランで食事の最中に殺された。ベルトラン・レイバのヒットマンによる犯行だった。グスマンに代わり指揮を執ったレホン(Z-2)は、04年10月に当局に捕らえられた。その後はエリベルト・ラスカノ(Z3)が組織の指揮官に昇格した。
いくら一騎当千とはいっても30人では行動は限られる。ロス・セタスはヌエボラレドの国境地域に訓練基地を作った。そこに連邦警察、州警察、地方警察などから汚職警官を集めて訓練を行っている。そこにはGAFEトレーニング施設と同じ設備が整えられている。
政府当局の2005年9月の議会証言によると、セタスは元の特別部隊出身者が消耗したのを埋め合わせるため、グアテマラの準軍事組織「カイビレス」から新兵を補充し訓練を施した。いまやセタスは二千人の戦闘員からなる準軍事組織に変身した。しかし創設時メンバーの多くが逮捕・殺害されており、初期のセタスの圧倒的強さから見れば闘争能力や戦闘規律は減退しているとも言われる。
「カイビレス」は1980年ごろ編成されたグアテマラ軍の特殊暴動治安部隊である。内戦中に虐殺したグアテマラ人の数は1万を下回ることはないだろう。停戦後も準軍事組織として残存している。グアテマラ年表を参照のこと
D殺し屋部隊から一大カルテルへ
シナロアとの戦いの最前線に立ったセタスは大暴れする。セタスは4つの州で少なくとも5つのカジノを襲撃し無関係な人までふくめ殺害した。ソノーラ州では警察署を攻撃し警官5人を射殺した。アカプルコ、モンテレー、ベラクルスにも侵入し、シナロアの息のかかった警官を殺した。
シナロアvsガルフ戦争では、戦闘が開始されてからすでに1千名を越える死者が出ていた。麻薬カルテルの抗争はインターネットにも波及。麻薬と暴力を称える唄が流れ、一方が頭に銃弾を撃ち込まれた者のビデオを載せると、他方は首がほとんど胴体から離れている画像をロードするなど残虐性もエスカレートしていった。
07年初頭、カルテルとの全面戦争を宣言したカルデロン大統領はヌエボ・レオン、タマウリーパス両州に、3千人の兵士を派遣した。
シナロアも激しい消耗を余儀なくされた。そして連邦軍派遣を受けて全面制覇を断念し、東部国境地帯での自派の交易を認めさせる条件でガルフの存続を容認した。
このときロス・セタスは、ガルフ・カルテル、ベルトラン・レイバとの協定を取り決めた。そして彼ら自身が麻薬密輸にかかわることを認めさせた。セタスはガルフ・カルテルと同格のパートナーに昇格し、麻薬取引においてより積極的な役割をになうようになった。
08年初め、ベルトラン・レイバとの共闘体制を確立したセタスはモンテレイなど北東部でシナロアに対する反撃を強化した。
セタスは全国に数百の拠点を確保している。彼らはタバスコ、ユカタン、キンタナ・ルー、チアパスなどメキシコ湾岸地域のいたるところに出没している。さらにゲレーロ、オアハカ、ミチョアカンという太平洋側の都市にも拠点がある。もちろんメキシコシティーにも存在している。彼らがテキサスなどアメリカ諸州で活動していることを示す証拠も挙げられている。
しかし、これまでの闘いの間に対立する各派から恨みを買っており、孤立を深めているとも言われる。2007年初め、「ラ・ヘンテ・ヌエバ」(新しい人々)という武装グループが活動を開始した。セタスが殺した数百人の警官の命に対して復讐を誓う組織である。隊員の大部分は元警官という。シナロア・カルテルから資金提供を受け取っているといわれる。
Eガルフと敵対関係へ
ウィキペディアは関係者の発言を引用し、こう述べている。「ガルフ・カルテルはライオンをつくった。今やライオンは成長し、飼い主を制御しようとしている。セタスはどんなことも、もうガルフ・カルテルに許可を求めない。たんに活動を知らせるだけだ、彼らが好きなときに」
第七章 フアレス・カルテルの巻
@フアレス戦争
この文章を書いている時点(2010年11月)で、さしものメキシコ麻薬戦争も先が見えてきたように思える。ひとつは2月のレイノサ決戦におけるセタスの敗北である。二つ目は4月のシウダ・フアレスでのシナロア勝利確定との当局発表、そして三つ目が9月のラ・バービーとバラガンの相次ぐ逮捕である。
この十年余りの間に、勝敗の帰趨を決するような戦闘はいくつかあったが、6年にわたり力勝負が続いた戦闘はフアレスの戦いを置いてほかにない。まさにフアレスの戦いは戦争と呼ぶにふさわしい内容を持っており、ギリシャ時代のトロイ戦争をさえ想起させるメキシコ麻薬戦争史の白眉である。
Aカリージョ・フエンテス
フアレス・カルテルは、かつてシナロア同盟の一角をなす麻薬業者だった。チワワ州シウダ・フアレスに本拠地を置くためこう呼ばれる。
シウダ・フアレスは麻薬密輸のための主要ルートのひとつであり、取引高は数億ドルに達するといわれる。フアレス・カルテルは伝統的にこの回廊を押さえることにより、グループとして発展してきた。
フアレス・カルテルの母体はラファエル・アギラール・グアハルド(Guajardo)によって1970年代に設立された。グアハルドの下で育てられた甥のアマド・カリージョ・フエンテスは、93年にボスの地位を引き継いだ。
この経過については異説がある。アマドはグアダラハラ・カルテルの初代組長エルネスト・フォンセカ・カリージョの甥で、グアハルドを自らの手で暗殺してカルテルのトップになったというものである。どうもこちらのほうが確かそうである。
アマドの巧みな運営によりフアレス・カルテルはシナロア連合の中核となり、90年代末にはメキシコ最強のカルテルに育った。
彼は27機のボーイング727を所有し、大規模な空輸作戦を実施した。「空飛ぶ麻薬王」と呼ばれるゆえんである。また麻薬ボスの中で最も折り目正しく、常識をわきまえた、社交的な人物であると評されている。写真を見るとたしかにそう思える。
アマドの威勢はヘスス・グティエレス将軍のスキャンダルで如実に示された。97年、メキシコ連邦政府の対麻薬戦争の責任者ヘスス・グティエレス将軍が逮捕された。その理由はアマド・カリージョを保護し、分け前を受け取っていたとの容疑だった。
アマドは兄弟をビジネスに巻き込んだ。そして後には自らの息子もカルテルの幹部とした。
アマドは97年に美容整形手術が失敗し、合併症を起こして死亡した。アマドの死はメキシコの暗黒街に大きい権力の空白をつくった。跡目争いが勃発したが、アマドの兄弟ビセンテ・カリージョがムニョス・タラベラ兄弟を破り支配権を掌握した。
ビセンテはフアン・ホセ・エスパランゴーサ・モレノ、兄弟のロドルフォ・カリージョ・フエンテス、甥のビセンテ・カリージョ・レイバ、リカルド・ガルシア・ウルキサらと手を結び、それ以来13年間にわたりカルテルを統率し続けている。フアレス・カルテルがビセンテ・カリージョ・フエンテス組織と呼ばれるのはこのためである。
フアレス・カルテルは長年シナロアと同盟関係を結んできた。チワワ、シナロアにドゥランゴ州を加えた三州は「黄金の三角地帯」同盟と呼ばれてきた。
ビセンテ・カリージョはシマを守るために政治力を発揮した。シナロア・カルテルの大物たちと盃を交わした。相手はバハ・カリフォルニアのイスマエル・サンバダ、モンテレイのベルトラン・レイバ兄弟、タマウリパスのホアキン・グスマン(エル・チャポ)らである。
Bシナロア・カルテルの第二次分裂 フアレスとシナロアの決別
フアレス・カルテルは2005年11月まで国境地帯中央部のメイン・プレーヤーだった。しかしアマドの死後に対抗組織が力を強める中で、既得権に頼るフアレスは徐々に勢力を弱めてきた。内部的にもカリージョ・フエンテス一族の権力独占に対するほかの幹部の不満が強まっていった。
2001年にエル・チャポが脱獄に成功すると、フアレス内の不満分子はビセンテの下を離れ、シナロアの本家であるエル・チャポの組織に結集するようになった。
弁護士のどのような意志を下書き
2004年、エル・チャポはエル・マジョとアルトゥーロ・ベルトラン・レイバを呼んでフアレス・カルテルの乗っ取りを提案した。エルマジョはこれまでフアレスとは浅からぬ関係があったが、エル・チャポの提案を受諾した。
9月11日、ビセンテの兄弟ロドルフォの一家がクリアカンにショッピングにやってきた。一家とボディーガードら5人は公衆の面前で射殺された。ロス・ネグロスの犯行であったとされる。
カリージョは刑務所に収監中のエル・チャポの兄弟を暗殺することでこれに応えた。ここから二つのカルテルの縄張り争いに火がつけられた。
Cエル・チャポによる総攻撃
この争いは2005年から始まったシナロア対ガルフの戦争のために一時休戦となった。しかしエル・チャポはフアレス奪取を断念したわけではなかった。2007年、ガルフとの闘争が一段落すると、シナロアは総攻撃の準備に取り掛かった。
フアレス・カルテルは国境の両側に二つの戦闘組織を創設した。メキシコ側には「ラ・リネア」が作られた。その主体はシウダ・フアレスの市警、チワワ州の州警察の元警官がリクルートされたものである。なかには現職警官もふくまれていたという。その冷酷で野蛮な行動は、一般大衆だけでなく地方の公安当局やシナロア・カルテルにも恐れられている。
04年、シウダ・フアレス市内にカルテルによる連続殺人の現場が発見された。そこは「死の家」と呼ばれるラ・リネアのアジトであった。ラ・リネアは闘争相手を殺すだけではなく、その首を切り死体を切り刻む。そしてそれらを人前に投げ捨てる。これは相手に恐怖を植えつけるためである。
米国側のテキサス州内には大規模なギャング団「バリオ・アステカ」が組織され、フアレスの対岸エルパソ、テキサス州のダラスやオースティンなどで活動を展開した。彼らはテキサス州だけでなくニューメキシコ、アリゾナ州にも活動範囲を拡大した。
総攻撃が開始されたのは08年初めのことであった。たちまちのうちにフアレス・カルテルはシウダ・フアレスに閉じ込められ、生死を賭けた激烈な市街戦に追い込まれた。両派のストリート・ギャングによるビルからビル、ブロックからブロック、広場から広場への死闘が展開された。わずか2ヶ月で400人が殺された。
数千の連邦軍が配備されたが、戦闘が収まるのは彼らが市内パトロールを行う時間だけだった。連邦軍が基地で休息をとる土曜・日曜は銃火が街を支配した。月曜の朝、広場や駐車場、ハイウエイの道端には数十の名もない遺体が転がっていた。二大カルテルの激突はチワワ州に1万もの死体を残した。
D連邦軍の介入と警察の浄化
08年3月、カルデロン政府は連邦軍2千人、連邦警察捜査官400人のシウダフアレス進駐を命じた。地方の警察ではまったく統制がとれず、完全な暴力の支配する町と化したからである。
連邦軍は市内の公安機能を市警から剥奪し、市警察に厳しい監視の目を向けた。これはなによりも市警察の暗黙の支持を当てにしていたフアレス・カルテルにとって痛手となった。しかしそれはシナロアにとっても大規模な制圧作戦の実施を控えさせる理由となり、折からのべルトラン・レイバの反乱ともあいまって、戦闘を長引かせることとなった。
09年4月、カルテルのボス、ビセンテ・カリージョがメキシコ市内潜伏中を逮捕されたが、フアレスの士気は落ちなかった。
劇的な変化は2010年に出てきた。1つは保安責任が連邦軍から連邦警察へと移管されたことである。じつは連邦警察そのものもカルテルに激しく汚染されていた。カルデロン大統領は連邦警察の浄化を推進し、統制可能な状況に進んだと判断した。
連邦警察内部の広範囲な改革が進み、新たに採用され訓練を受けた警察官がフアレス保安作戦の前面を担当するようになった。軍は郊外や地方の広大な地域に主たる活動の地域を移した。彼らの受けた訓練、機材などを考慮すれば、そのほうがはるかに有効である。
E戦いは終わったか?
2010年4月9日、AP通信は「シナロア連盟がファレス・カルテルからファレス地域の麻薬取引の主要な支配権を奪った」と報道した。これはFBI筋のリークによるもので、数日後に当局もこの報道を確認した。
しかしファレス・カルテルは報道を受けて逆に奮い立った。その後の数週間に暴力は再び地域で活発化した。4月26日には連邦警察のパトロール隊が待ち伏せ攻撃を受け7人が死亡した。4月28日だけで20人の「処刑」が行われた。10年に入ってから4ヶ月で870人が麻薬関連死している。
2010年7月15日、彼らの攻撃は新しいレベルまで引き上げられた。ファレス・カルテルは連邦警察を対象とする自動車爆弾作戦を敢行した。
戦いは終わっていない。ファレスは今もなおメキシコの最も乱暴な都市のままである。
第八章 ベルトラン・レイバ
@2008年1月
08年1月はフアレスとシナロアの激突が始まった月である。それはべルトラン・レイバがシナロアと袂を分かった月でもあった。シナロア・カルテルは多くの派閥に割れ、互いに激しく争うようになった。その激闘の中心にいたのがベルトラン・レイバ兄弟とそのカルテルである。
さらに言えばその長兄で「ボスの中のボス」と称されたアルトゥーロ(エル・モチョモ)である。
Aべルトラン・レイバ兄弟
ベルトラン・レイバ・カルテルはコカイン、マリファナ、ヘロイン、メタンフェタミンの生産、輸送、卸売りを一手に取り扱う「商社」であり、荒っぽいが玄人の麻薬業者だった。また中南米からメキシコへ、メキシコからアメリカへと密入国を斡旋するビジネスも扱っていた。
いまでは脅迫、誘拐、請負殺人と何でもこなし、女子供でも見境なく標的とするなど狂気の程度はセタスにも引けをとらない。警察や司法当局への攻撃態度もセタスと双璧をなしている。
ベルトラン・レイバ兄弟はいずれも1960年代、シナロア州の田舎で生まれた。 マルコス・アルトゥーロ、カルロス、アルフレード、そしてエクトルの4兄弟である。しかし2010年11月現在で娑婆にいるのはエクトルのみである。
ベルトラン・レイバ兄弟はもともとシナロアの幹部であり、2007年まではシナロアを支え続けてきた。彼らは若いときからシナロア・カルテルに加わり、エル・チャポの忠実な部下として20年以上にわたり働いた。
アルトゥーロが指揮するシナロアの実力部隊「ロス・ネグロス」は、すでに90年代半ばから北東部メキシコで密輸回廊の簒奪戦争の主役だった。
ガルフのオシエルが2003年3月14日に逮捕されると、シナロアはその空隙を狙ってガルフの縄張りに侵入した。闘いの中で一般人、警察、ジャーナリストを含む何百人もの人々が殺された。死者のおよそ90%は麻薬密売人である。
アルトゥーロは戦闘集団を率い前線で闘い続けた。知恵と勇気、さらに狂気も兼ね備えていたゆえのことだろう。「ボスの中のボス」と賞賛されるゆえんである。
Bセタスとの密約
ガルフとの戦いはこう着状態に陥り、セタスの活躍によりシナロア側にも深刻な被害が続いた。07年半ば、エル・チャポはガルフとの停戦を持ち出し、アルトゥーロがシナロア代表として交渉に当たった。
アルトゥーロはガルフ・カルテルのミゲル・トレビノ・モラレスに会った。交渉をまとめ上げ、休戦協定を結ぶことに成功した。アルトゥーロはフアレス・カルテルのビセンテ・カリージョとも休戦協定を結ぼうとしていたといわれる。しかしその提案はエル・チャポにより拒否された。
アルトゥーロは自立したパートナーとしての承認を求めるセタスの要求に応じ、ガルフ・セタスとの三者協定を結んだ。この同盟はセタスのZ3、ラスカーノも承認した。その後、べルトラン・レイバとセタスの関係は急速に深まっていく。
アルトゥーロはひそかに、自らもエル・チャポから自立し新たな連携の動きを模索する決意を固めた。
停戦後、アルトゥーロはコロンビアとの自前のコカイン・コネクションを確立して、速やかにメキシコの麻薬業者のトップ・グループのひとつとなった。賄賂と脅迫の手段を駆使してベルトラン・レイバはメキシコの政治、司法、警察に浸透した。そして反麻薬作戦について機密情報を入手した。インターポールの事務所にさえ浸透したという。
エル・チャポにしてみれば、かなり目障りな存在になりつつあったことになる。
Cエル・チャポとの決別
破局は一気に訪れた。2008年1月21日、三男アルフレードが警察に逮捕された。このときアルフレードは大規模な麻薬密輸作戦を監督し、マネーロンダリング工作の元締めを担当していた。
これはエル・チャポの差し金であった。少なくともアルトゥーロはそう見た。ティフアナとフアレス・カルテルがやられた。次は自分たちだと思ったのかもしれない。
現地メディアは、メキシコ連邦当局筋の情報として、「2007年半ば頃に、アルトゥロが、ガルフに対して秘密裡に支配地域の分配を持ちかけたことが分裂の発端」と報じており、ベルトラン・レイバ側の裏切りがそもそもの発端であった可能性もある。
アルトゥーロはアルフレード逮捕への報復を計画した。2008年の春、アルトゥーロはロス・セタスから援助を受け、高度の情報テクニックを駆使したきわめて暴力的な部隊を組織した。長年アルトゥーロの懐刀として暴力活動を専門に担当してきたラ・バルビー(エドガル・バルデス・ビジャレアル)が指揮官となった。
アルトゥ−ロは連邦政府警察の長官など政府要人の暗殺を命じた。メキシコ・シティーにいくつかのアジトが構えられたが、そのひとつが当局の摘発を受けた。何十丁もの攻撃ライフル、ピストル、手榴弾30個とランチャー、防弾チョッキが押収された。
アルトゥーロはますますエル・チャポが裏切ったと確信するようになった。そしてエル・チャポの息子の暗殺を命じた。息子エドガル・グスマンは当時22歳だった。彼はクリアカン市内のショッピングセンター駐車場において攻撃ライフルと手榴弾ラウンチャーの攻撃を受け殺された。銃撃者は少なくとも15人はいたされる。この事件は「アルトゥーロの特別部隊」(FEDA)の伝説を生んだ。
Dアルトゥーロの死とべルトラン・レイバの内部分裂
アルトゥーロは、シナロアに対抗すべくガルフ・セタス、フアレスとの連合を画策した。シナロア、コアウィラ、チワワ、ヌエボレオンとタマウリパス州がその統制・影響の下に入った。
しかしその野望を自らの死が妨げた。
2009年12月16日、メキシコ軍が秘蔵していた海兵隊特殊部隊が出動した。標的はアルトゥーロだった。モレロス州クエルナバカにある贅沢な高層の分譲アパートに宿泊していたアルトゥーロを海兵隊はひそかに包囲した。
アルトゥーロの死の直後、今度は次男のカルロスが逮捕された。クリアカンの市内で信号待ちの間に検問を受けたカルロスは偽の免許証を提出したが、ばれてしまった。車からは武器とコカインが見つかった。
3月中頃までベルトラン・レイバの中では内紛が始まった。ペドロ・ロベルト・ベラスケスが組織を託されたが、エドガル・バルデス・ビジャレアル(ラ・バルビー)とヘラルド・アルバレス・バスケスの実行部隊は公然と反旗を翻した。
ベラスケスはレイノサの戦闘に敗北した後、モンテレー市内で暗殺される。残された末弟のエクトル・ベルトラン・レイバにはカルテルを仕切るのには荷が重すぎた。エクトルの派閥は、最高幹部セルヒオ・ビジャレアル・バラガンが指導した。
2010年4月、エクトルは自らの組織を南太平洋カルテルと改称した。これはシナロアに正面戦を挑もうとするバルビーには敵前逃亡と映った。
「仁義なき闘い」の世界だからどちらが正しいなどというのは無意味であるが、とにかくそうやって二つの組織は決別した。
Eラ・バルビーの逮捕
エドガー・バルデス・ビジャレアルは、米テキサス州ラレドで生まれた。36才のアメリカ市民は、高校生ジョッキー(売人)からメキシコ麻薬カルテルのアンダーボスまで行った。彼はアルトゥーロ・ベルトラン・レイバの親しい親友であった。
エル・ティグリージョ(若虎)というかっこいい通称もあるが、世間からは「ラ・バルビー」と呼ばれるのが普通である。これは「バービーちゃん人形」というアメリカ人の女の子の大好きな着せ替え人形で、バービーちゃんのお相手のハンサムな若者の「ケン」というフィギュアと似ているからだといわれるが、写真で見る限り、似ても似つかぬイカツイ男である。
高校時代、アメフトの選手だったが、通りでマリフアナの売人もしていた。そのうち、米国内で車を盗み、メキシコで売りさばくようになって、メキシコの麻薬組織のメンバーと付き合いができた。
やがてシナロア・カルテルの戦闘部隊「ロス・ネグロス」に加わって頭角を現わすようになった。当時はベルトラン・レイバはシナロアの傘下にあったが、バービーを見込んで麻薬運搬などの責任者に取り立てた。
エクトルと決別したバルビーは、組織の本拠地モレロス州からゲレロ、メキシコ、プエブラ、イダルゴ州へと追撃の手を広げた。
バルビーはエクトル派との闘いで150人以上を殺害したとされる。とくに逮捕の1ヶ月前、エクトル派がクエルナバカの鉄橋に4人の首なし死体を吊るした事件は有名である。
ロス・ネグロスはバルビーの下に独立したカルテルとして発展を図った。wikipediaによれば、現在はセタスと共闘関係を組み、タマウリパス州ヌエボ・ラレードを拠点としヌエボ・レオン州、コアウィラ州にも影響力を広げる。最近はゲレーロ州など中部にも進出を図っている。
つまりセタスと勢力範囲はほぼ一致しており、合体の可能性もある。
8月30日、バルビーはメキシコシティー郊外の農家に潜伏中を捕らえられた。この後メキシコ国内およびアメリカでの裁判が待っている。一時はメキシコ麻薬業界の次の世代をになう人物と目されたが、一巻の終わりである。
2010年8月にラ・バルビーが逮捕された後はヘラルド・アルバレス・バスケスがロス・ネグロスの指揮を執っているようである。
第九章 負け犬同盟の巻
@もろい同盟
ベルトラン・レイバとセタスを中核とする同盟は、アルトゥーロとエクトルのベルトラン・レイバ兄弟による努力の結果であった。しかしこの同盟は、生まれも育ちも異なる三つが、反シナロアという目的だけでくっついた当初からもろいものだった。
フィクサーとなったベルトラン・レイバが首領アルトゥーロの殺害の後、分裂状態に陥った。ガルフとセタスは決定的な対立に陥り、ガルフは積年の恨みを捨てシナロアの保護を求めるにいたった。ティフアナ・カルテルの残党もこの同盟に加わったとされるが、最大の武闘派テオドロ・ガルシア(エル・テオ)はこれに従わずシナロアのイスマエル・サンバダ・ガルシアと結びついた。
もはや戦闘力を無傷で維持しているものはセタスのみとなった。これが2010年2月の状況である。とどのつまり、この同盟はセタスを除けば負け犬の集合と見られる。少し順を負って見ていこうと思う。
Aセタスとガルフの衝突
2010年、悪化した両者の関係はついに戦争状態まで立ち至った。1月18日、ロス・セタスのセルヒオ・メンドサ・ペーニャがタマウリパス州のシウダ・ミゲル・アレマン地域で殺された。メンドサはセタスのナンバー2、ミゲル・トレビノ・モラレス(Z40)の右腕と目されていた。
伝えられるところでは、メンドーサはガルフ・カルテルの組織員と激論の末殺害されたようだ。この組織員はガルフのナンバー2、エドゥアルド・コスティージャの手下だった。
メンドーサの死を知ったトレビノは、コスティージャに対し、1月25日までに責任を明らかにせよとの最後通告を送った。最終期限は反応のないまま過ぎ去った。トレビノは報復に踏み切った。そして16人の名の知られたガルフ・カルテルのメンバーを誘拐するよう命じた。こうして目には目をの復讐がタマウリパスの国境地帯で拡大した。
事件の背景には連邦軍に対する姿勢の違いがあったかもしれない。09年末、大規模な連邦軍部隊がタマウリパスに進駐してきた。これに対しセタスは真っ向勝負を挑んだ。
レイノーサではカルテルが軍兵士の進入を阻むため、幹線道路に車、バス、トレーラーでバリケードを築いた。ヌエボ・ラレードでは米国領事館に爆発物が投げ込まれた。
Bレイノサ決戦
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ヌエボ・ラレドまでのリオ・グランデ南岸はマタウリパス州に含まれる |
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ガルフはシナロアに応援を求め、「新同盟」が成立した。この同盟はガルフと、二つのセタスの敵を結びつけた。すなわちシナロア同盟とラ・ファミリアである。
この同盟は三者それぞれに有益であった。ガルフ・カルテルにとっては、生き残って、その資源を増やして、ロス・セタスに対して優勢を得さえすることができた。シナロアとラ・ファミリアは、ロス・セタスに対する心からの憎悪で結びついていた。もちろんテキサス州への回廊をめぐる利権への関心も共有していた。
2010年2月8日、両者はタマウリパス州の国境沿いの町レイノサで決戦を開始した。
「国境線」はレイノサとマタモロスの間に引かれた。
ロス・セタスの軍勢が戦いを仕掛け、ロス・ネグロスがこれを支援した。対抗するのはガルフ部隊にラ・ファミリア、そしてシナロアを加えた「新連合」軍だった。
11日、セタスの配ったビラは、エル・チャポがシウダ・フアレスとトレオンで攻撃を加えていると非難した。またメキシコ連邦政府がグスマンを保護していると非難した。
当局によれば、26日までに16人が死亡し11人が負傷した。住民はこれよりはるかに多いと証言している。レイノサの米領事館は一時閉鎖され、マタモロスの領事館は合衆国市民に対しレイノサ周辺に立ち入らないよう勧告した。
2月決戦の結果、シナロア同盟はセタスからレイノサをもぎ取った。そして南テキサス回廊上の多くの拠点を獲得した。国境のいくつかの町は「ゴーストタウン」となった。
敗れたセタスはヌエボ・ラレードまで撤退したが、シナロアは追撃の手を緩めなかった。19日にはヌエボ・ラレドで戦闘が始まった。結局セタスは最後の拠点であるモンテレーまで引き揚げなければならなくなった。
今度はメキシコ第三の都市モンテレーがカルテル活動の中心となった。誘拐、目標を決めた「処刑」などすべての犯罪活動が一気に増加した。
各地でセタスの残党狩りが本格化した。移動警察の警官が走る車から投げ捨てられた。4本の花と新連合の旗が同時に投げられた。旗には「ロスセタスを支持するものがどうなるか、これがその印だ」と書かれていた。
タマウリパス州マデロでは、セタスのものと見られる20人の遺体が確認された。シナロアの刑務所ではセタス服役者が襲撃され29人が殺害された。巻き添えで刑務所職員13名も死亡した。
6月10日、連邦軍がモンテレイのセタス拠点を襲撃した。銃撃戦の末、北部セタスの首領エクトル・ラウル・ルナルナ(akaエル・トリ)が逮捕された。セタスは新同盟と連邦軍に対し、無謀にも二正面作戦を立てて、その結果敗れたことになる。
Cセタスの行方
09年後半からのセタスの行動には一貫した戦略が見られない。組長であるZ3・ラスカーノやナンバー2のミゲル・トレビノ・モラレス(Z40)が全体を統率しているようには見えない。マタウリパス現地の闘いはルナルナが全面的な指導権を握っているようである。ここ数年の間に急速に拡大した組織は水ぶくれ状態にあるのではないか。
他のギャングでは多くは地方農村の出身で、古きよき時代の家族愛・郷土愛という思想が根っこにあるものだが、ある意味で超近代的・外在的な組織であるセタスは、本来そのようなものを持たない。同じカルテルでも地域という特殊性に固執するラ・ファミリア・ミチョアカーナとは対極をなしている。暴力という普遍性に関する信念と、組織に対する無限の忠誠のみが自らを支えるすべてとなっている。
この二者の比較から、アウトローの社会学、疎外された民衆の行動倫理を導出する理論化作業は、たぶん猛烈に面白いと思います。若い学生さんが挑んでくれることを期待します。
セタスはグアテマラやエルサルバドルの軍隊崩れを大量にリクルートしている。彼らは10年余りの内戦を戦うなかで数万の農民・大衆を虐殺してきた。その中には殺人鬼と化した精神異常者が大量に紛れ込んでいると思われる。20年8月の密出国希望者70人虐殺事件を見ると、内戦時代のグアテマラやエルサルバドルを想起するのは容易である。
セタスは恐るべき冷酷な集団であり、その多くは無傷のままである。一方で新連合にもガルフとシナロアの連携がいつまで続くかという問題がある。過去10年近くにわたり死闘を続けてきた両集団が笑顔で肩を抱き合う場面は想像しにくい。
米国やメキシコ政府の姿勢も絡んでくるから、これで単純に決着がつくとは思えないが、二年以上にわたり続いてきたカルテル間の激闘に先が見えてきた感じはする。
Dシナロア一人勝ちの秘密
シナロアが目下のところとはいえ、麻薬戦争を勝ち抜いてメキシコ全土の覇権を獲得するに至った理由は何だろう。端的に言えばエル・チャポが逮捕されずに逃げ切ったからであろう。では何故エル・チャポのみが厳しい捜査の目をかいくぐって生き延びたのか。そこには権力側の何らかの意図を感じても不思議ではない。
もちろんシナロアが度重なる弾圧を無傷で切り抜けたわけではない。エル・チャポ・グスマンには3人の側近がいる。一人はイスマエル・サンバダ・ガルシア(別名エル・マヨ)であり、もう一人はイグナシオ・コロネル・ビジャレアル(別名ナチョ・コロネル)である。
シナロアを中心とする「新連合」はナチョ・コロネルによって創り出された。ナチョはラ・ファミリア・ミチョアカナとミレニオ、バレンシア・カルテルをグループに加えた。サンバダはティフアナ・カルテルの武闘派エル・テオを味方に引き入れた。
ナチョは2010年7月29日にハリスコ州のサポパンでメキシコ軍と銃撃戦の末射殺された。もう一人の親しい同僚だったハビエル・トレス・フェリクスも逮捕されて、2006年12月にアメリカに引き渡された。
しかしグスマンとサンバダだけが、これまで彼らを逮捕しようとする作戦を回避してきた。
2009年5月に、米国のラジオ局は、メキシコ連邦警察と軍がシナロア・カルテルとの共謀で動いたと報道した。レポートは「全ての部署がシナロア・カルテルのために働いており、他のグループと戦うのを助けている」との前ファレス警察幹部の証言を引用した。
この報告はまた、シナロア・カルテル・メンバーの逮捕率が、他のグループと比較して異常に低いことを数字で示している。これは当局によるエコヒイキの証拠だった。メキシコの当局者はただちに「偏愛」(favoritism)の主張を否認した。
フアレス市警察の前警部マヌエル・フィエロ・メンデスは米国における裁判に立ち、シナロア・カルテルのために働いていたことを認めた。彼はシナロア・カルテルがメキシコの政府・軍に影響を行使し、この地域の統制権を獲得しようと図ったと主張した。
第十章 ラ・ファミリア・ミチョアカーナの巻
@二重否定された狂気
メキシコの麻薬カルテルは、実はもう一つある。まことに変わり者で、ミチョアカンというメキシコ中部の一つの州、ただそれだけをプラサ(縄張り)としている。小さなカルテルだが不思議にシマも荒らされず、つぶされもせず生き残っている。
何か政府も、他のカルテルもこのカルテルには一種の敬意を払っているかのようにさえ見える。メキシコ自体が狂気の荒れ狂う国だから、その国における狂気の象徴としてのこのカルテルは、逆に何故か救われるような気さえするのである。
ラ・ファミリアはもとはガルフ・カルテルの一員であったが、2006年に分離。現在はシナロア・カルテルと同盟関係を結んでいる。ナサリオ・モレノ・ゴンサレスが創立以来組織を統率している。
ゴンサレスの通称は「エル・マス・ロコ」、直訳すれば最悪の狂人ということになる。ただしロコには「統合失調」という堅苦しいニュアンスはなく、「奇人・変人」、あるいは「ビョーキ」とか、関西弁で言えば「ドアホ」に近い。
どこが狂っているかは以下の通り。
ゴンサレスは自らの語録を「バイブル」として携えている。そこには彼の組織が敵を除去するために、神から授けられた王権を持っていると説かれている。彼は密売人と殺し屋からなる手下どもに麻薬の使用を避けるよう命じている。
ラ・ファミリアは女・子供に暴力を振るったり、搾取したりすることを許さない。それはメキシコ人への麻薬販売に反対している。そのメンバーは麻薬リハビリテーション・クリニックから補充される。そして中毒から回復するのを援助する。それから、彼らに麻薬カルテルのための服務を強いる。さもなくば殺す。
Aラ・ファミリアの生い立ち
ラ・ファミリアは、1980年代に結成された。その目的はミチョアカンに秩序をもたらし、貧しいもののために援助と保護を与えることだ。「バイブル」にはそう説かれている。
当初ラ・ファミリアは一種の自警団として組織された。「敵」と呼ばれる誘拐団や麻薬業者の干渉に抵抗するため、自らにも力が必要だというのが理由である。ラ・ファミリアはその評判をずっと利用してきた。神話を建て権力を握り、結局はそれ自身がギャングに変身した。
ラ・ファミリアは、1990年代にガルフ・カルテルの準軍事的なグループとして表に姿を現した。セタスによる軍事訓練を受けた彼らは、ミチョアカン州でのライバル麻薬カルテルの活動を終わらせ、麻薬取引を統制することを目標とした。
2006年に、グループはガルフ・カルテルから離れて、独立して麻薬取引を行うようになった。これにはロス・セタスやベルトラン・レイバから強力な抵抗があった。このためラ・ファミリアはホアキン・グスマンのシナロア・カルテル、アレジャノ・フェリクスのティファナ・カルテルとの強い関係を築き、自らを守った。こうしてラ・ファミリアはメキシコ有数の強力なカルテルに育っていった。
Bカルト的教義
ラ・ファミリア・カルテルは「擬似宗教的」な組織と称されることがある。というのも指導者であるモレノ・ゴンサレスとメンデス・バルガスが殺人や斬首を「神の正義」と呼んでいるからである。
モレノ・ゴンザレスはラ・ファミリアのボスであると同時に、組織の精神的なリーダーでもある。彼の語録である「バイブル」は、宗教と家族主義的な価値観を強調している。そこにはエバンゲリスト教会風の自助精神と反政府の農民スローガンが混合したイデオロギーがうたわれている。
モレノ・ゴンサレスはラ・ファミリア暴力団構成員に「バイブル」を読むことを強制している。そして田舎の教師に金を払い、全国教育振興基金(CONAFE)に拠出し、ミチョアカン州のすべての地域に書籍を配布している。
組織内での昇進のためには射撃訓練にいそしむだけではなく、祈祷会への出席態度がものを言う。カルテルは、農民、ビジネス、学校そして、教会にローンを与える。そして地方紙に慈善活動の宣伝を掲載する。これは地方社会の支持を獲得するためである。
2009年4月20日、およそ400人の連邦政府警察はカルテル・メンバーの子の洗礼命名式パーティーを急襲した。44人が逮捕された。そのなかにナンバー2のラファエル・セデノ・エルナンデスも含まれていた。彼は組織の思想教育を担当していた。
2009年7月16日、カルテルの「参謀長」セルバンド・ゴメス・マルティネスは、テレビに以下のメッセージを流した。
「ラ・ファミリアは、我々の民衆、そして我々の家族の利益を見守るためにつくられた。我々は必要悪である。我々が欲しい唯一のものは、和平そして、静穏である」
フェリペ・カルデロン大統領は、カルテルと取引することを拒否し、彼らの対話の要請を拒絶した。
C民主主義の脅威
かといってファミリアが夢見る乙女のような心優しい組織であるわけはない。それどころかメキシコの標準によってさえ、異常に激しい行動をとることで知られている。それは麻薬戦争のただなかで急成長しているカルテルなのである。メンバーは一方でミチョアカン州で社会活動の基地を造りなががら、他方でライバルを破壊するために殺人と拷問、死体に対する陵辱を用いる。
2006年のウルアパンでの事件で、カルテルはナイトクラブのダンスフロアに5つの生首を投げ込んだ。そこには一通のメッセージが添えられていた。
「ファミリアはお金のために殺さない。ファミリアは女性を殺さない。ファミリアは無実の人々を殺さない。ファミリアは死ぬに値する人々だけを殺す。"神の裁き"を知れ」(中村主水のセリフにこんなのなかったっけ?)
カルテルは麻薬の密輸・販売から始めて、はるかに野心的な犯罪組織へ自らを向けようとしている。それはミチョアカン州の田舎の大部分を支配する影の州政府として君臨することである。それは企業から「税」を強奪して、コミュニティ・プロジェクトに投資し、小犯罪を統制し、地方のさまざまな論争を解決する活動である。
2009年5月、連邦政府警察は、ミチョアカンの10人の市長ほか20人の地方当局幹部をカルテルとの癒着の疑いで拘留した。2009年7月11日、カルテルの幹部アルノルド・ルエダ・メディナが逮捕された。ラ・ファミリアのメンバーはモレリアの連邦政府警察署を攻撃しルエダの解放を図った。2人の兵士と連邦警察官3人が殺された。
2009年7月14日、カルテルは連邦警察職員12人を拷問し殺害した。そして、山のハイウェイの側に彼らの体を投げ捨てた。「もっと来い、われわれはここで待っている」とのメッセージが添えられていた。カルデロンは地域に1千人の連邦警官を急送した。連邦政府警官の数は3倍となった。10人の地方警官が殺人と関連して逮捕された。
ミチョアカン知事はこれに怒った。それを『占領』と呼んで、彼が意見を聞かれなかったことを非難した。その後、彼の義弟フリオ・セサル・ゴドイ下院議員がカルテルのトップランクのメンバーであることが発覚した。
麻薬カルテルは今や、メキシコの民主主義の将来に対する脅威を起こすほどに強力になった。
D米国での影響拡大
そのカルテルとしての短い歴史にもかかわらず、ラ・ファミリアはメタンフェタミンのメキシコ最大の供給元として米国に進出してきた。同時に中央アメリカの奥深くに供給チャンネルを掘り進めた。そして、コカイン、マリファナそして、他の麻薬の流通にも、ますます深く関係するようになった。
覚せい剤の製造工場は「スーパーラボ」と呼ばれ、8時間で最大100ポンドの覚せい剤を生産する能力を持っている。
2009年10月22日に、アメリカ連邦当局はラ・ファミリアに対する摘発作戦を発表した。4年にわたる調査の結果を元に実施したプロジェクト・コロナードと名づけられたこの作戦は、メキシコの麻薬カルテルに対する、史上最大の急襲であった。
19の異なる州で1,186人以上の人々の逮捕をもたらした。現金およそ3300万ドルが押収された。ほぼ2トンのコカイン、1トンのメタンフェタミン、13キログラムのヘロイン、7トンのマリファナ、389の武器、269台の乗物、そして、2つの麻薬ラボが摘発された。
とりあえずの総括
とりあえず、メキシコ麻薬戦争を「列伝」の形でまとめてみました、この程度の紹介でも、今後ニュースを読む際には相当参考になると思います。じつはこの数倍の材料があって、あまり突っ込みすぎるとかえって筋が見えなくなってしまう恐れがあるため、今回はこの程度にとどめました。どうしても人名や地名が盛りだくさんになってしまい、時系列も行きつ戻りつと煩雑ですが、今後、写真や地図などを追加して、ビジュアル的にも分かりやすいものにしていきたいと思います。
学生時代、酒を飲むことを知らない孤独な若者にとって、土曜の夜、とくに冬の寒さは応えました。下宿から2,3丁のところにオリオン座という二番館があって、オールナイト東映映画三本立てが120円だったと思います。座席の下にスチーム管が走っていて、館内が寒くなってくると誰かが叫ぶのです。そうすると蒸気の栓を開くカンカンという金槌の音が響いて、そのうちにお尻のあたりからホンワカと暖かくなってきます。あたかもスクリーンでは、着流し雪駄履きの高倉健が桜吹雪の下を懐手に歩いてゆくんですね。なぜ懐手かというと、いざというときに片肌脱ぐんです。そうすると脱いだ肩にも桜吹雪という按配。
そんなヤクザ映画に革命をもたらしたのが「仁義なき闘い」でした。もともと週刊誌に飯干某という作家が連載していて、それを愛読した記憶はあるのですが、映画館で見た記憶はありません。読んでいたときのイメージでは主役は鶴田浩二でした。菅原文太にしたのは主人公をも突き放して第三者の立場を貫こうとする佐藤純弥監督の思い入れでしょう。…思い違いをしていました。「仁義なき闘い」は最初から深作欣二でした。「組織暴力」と混同していたようです。
ひどいもので、深作の映画だと思っていた「私が棄てた女」は浦山桐郎でした。"捨てた"ではなく"棄てた"というのが原作者遠藤周作の思いです。
すごい映画です。遠藤にとっては「棄てる」ことが棄教にも似た哲学的・宗教的課題でした。浦山にとってはナイフで身を削ぎ落とすようなリアルな課題としてとらえられたのです。今なら"棄てる"という"シン"ではなく、かつて女性だった物体を不法投棄する"クライム"映画かも知れません。二度と見たいとは思いませんが…。
浦山に関するウィキペディアは思いっきりトリビアルで面白いものです。
松竹の助監督応募に募集しおとされる。この時、大島渚は合格し、山田洋次はおちる。その時の試験官だった鈴木清順に誘われ、日活の入社試験を山田と共に受け、不合格となり、山田は合格する。しかし、山田が松竹に補欠合格したため、日活に補欠合格することができ、1954年に助監督として入社。…石堂淑朗は葬儀委員長・今村昌平から、生前の浦山の女性遍歴の豊かさから、「今日、どんな女が来るかわからないから、しっかり見張れ」と命じられたとも言われた。
とにかく「仁義なき闘い」には一応すべての闘いの類型が提示されています。メキシコ麻薬戦争を知ろうと思ったら、まず「仁義なき闘い」全5部を見ておくべきでしょう。それから見るとメキシコ麻薬戦争のスケールの大きさがあらためて分かるでしょう。
私にはまず誰よりも、27機のボーイング727を駆使し、天上に夢を見た貴公子アマド・カリージョ・フエンテスがイメージとして膨らみます。「仁義なき闘い」には決して出てこないキャラクターです。いっぽうで、一歩間違えれば「サパティスタ農民ゲリラ」になっても少しもおかしくないミチョアカンの泥臭いカルテルがあります。
これら乱世に生きる「悪者」たちの生々しい生き様は、誰が、何人、どのように殺されたかという毎日のニュースからは伺うことができません。それは歴史を学ぶものの特権です。
それにしても根気のなさ、集中力の欠如、視力の低下と目の疲れなど、つくづく年齢を実感させられました。IBM(lenovo)のキーボードの品質低下も愕然とするほどです。以前なら4,5日もあれば仕上げられたのですが。
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