1943年10月6日、ワシントンでナチスのユダヤ人虐殺を糾弾する正統派ユダヤ教徒による集会と行進が挙行された際、ユダヤ教のラビ代表とルーズベルト大統領との会見の調整が試みられたが、ルーズベルトは、こうした会談は国務長官が行なうべきであると判断し、ホワイトハウスを訪れたラビ代表に対して、その到着前に外出し会見を回避する道を選んだのであった。
〈中略〉
ワシントンで抗議デモを行なう正統派ユダヤ教徒たち (1943年)
ヒトラーの迫害でたくさんのユダヤ人が犠牲になるなか、
アメリカは救出に何の手も打たなかった。1943年10月6日、
400名を越える正統派ラビがワシントンで抗議デモを行なった。
一行はホワイトハウスに到着し、ルーズベルト大統領に
直訴しようとしたが、大統領は会うのを拒否した。
正統派のユダヤ教団体は、ヨーロッパのユダヤ人を脱出させるため、パスポートやビザなどを偽造したが、アメリカのユダヤ人社会の指導者たちはこうした不正な方法に反対し、自国の移民政策に反してまで気の毒な難民に支援の手を差し伸べる気はなかった。
とりわけ、ポーランドで救援を待ち望む聖なるユダヤ教学者を救うことこそ、何ものにも優先すべきとする正統派ユダヤ教団体と、アメリカ国内世論の動向に神経質なスティーブン・ワイズら米国ユダヤ人社会の指導者たちの対立は深刻であった。
例えば、1940年8月初めにアメリカの主要ユダヤ人団体が参加した会議で、正統派のラビ(ユダヤ教指導者)たちは、リトアニアから3500人のラビ、学生たちを入国させるための特別ビザを発給できるよう国務省に圧力をかけて欲しいと要請したが、スティーブン・ワイズらは、これほど多数のユダヤ人を定住させることは容易ではないとして、アメリカ政府に圧力をかけることに反対したのである。
アメリカのシオニスト運動指導者たちは、ホロコーストの間もパレスチナに将来のユダヤ人国家を建設する計画に精力を傾けており、ヨーロッパのユダヤ人の救済は二の次であった。」
スティーブン・ワイズ博士
彼はアメリカのユダヤ指導者階級の
中心人物のみならず、全世界のユダヤ人の
指導者ともいうべき人だった。ルーズベルト大統領の
ブレーンの中でも随一であり、大統領ある所には、
必ず影のように彼がついていたと評され、その
政策を左右する実力を持っていた。
このワイズ博士ら米国ユダヤ人社会の
指導者たちと、正統派ユダヤ教団体
の対立は深刻であったという。
●アメリカの孤立主義の指導的代表者だったハミルトン・フィッシュ(元下院議員)は、著書『日米・開戦の悲劇 ─ 誰が第二次大戦を招いたのか』(PHP文庫)の中で、「ルーズベルトはユダヤ難民に無関心だった」と告発している。
少し長くなるが、参考までに紹介しておきたい。
(左)ハミルトン・フィッシュ (右)彼の著書
『日米・開戦の悲劇』(PHP文庫)
… ハミルトン・フィッシュの略歴 …
ハーバード大学を卒業し、第一次世界大戦に
従軍の後、1919年、米国下院議員に選出され、
1945年まで12回にわたり選出される(共和党員)。
アメリカの孤立主義の指導的代表者であり、ルーズベルト
大統領の外交政策を鋭く批判した。1991年没。
「1942年の初めに、私はヒトラーの非人道的な人種差別政策と、ドイツ、ポーランドにおける、何百万人にものぼるユダヤ人の虐殺を非難する決議案を議会に提出した。
これに対して、国務省はよくわからない理由から、虐殺について何も知らないと主張して、全世界の国々にユダヤ人に対する残虐な虐殺に反対するよう呼びかけようという私の提案の採択を妨害したのだった。その時には、ヨーロッパ中の国が、すでにヨーロッパのユダヤ人に対する残忍な虐殺を知っていたのだ。
しかるに、ルーズベルトの国務省は、説明のつかぬ、わけのわからぬ理由で私の提案に反対したのだった。」
「ユダヤ人のベン・ヘクトは、その自伝の中で、次のように述べている。
『ルーズベルト大統領が、ユダヤ人の虐殺を防ぐ人道主義のために、指一本上げなかったこと、ユダヤ人の置かれた境遇に対して消極的なコメントを繰り返したこと、史上最悪の大虐殺に対し無関心だったことは──』理解し難い。
ベン・ヘクトは、続けて、『ルーズベルトの首席秘書官でユダヤ系のデビット・ニイルズから、大統領はドイツのユダヤ人殺戮を非難するような演説や声明を発表したりしないだろう、ということを知らされた』とも書いている。
我々は、ベン・ヘクトの勇気のみならず、彼のこの問題に対する先見性を高く評価しなければならない。
彼は『次の事件』と題された、一幕物の劇を完成しようとしていた。
それは、ルーズベルト大統領が歴史の証言台の前に立たされ、お前はユダヤ人を救うために何をしたのかを述べさせられるのである。そしてナチの火葬場から蘇った12人のユダヤ人が、事件を裁く陪審員を務めるのだ。
ベン・ヘクトはビバリーヒルズ・ホテルで、この原稿を書き終えた時、ちょうど、ルーズベルトの死が発表されたのを、ラジオで聞いたのだった。
私は、ベン・ヘクトを心から尊敬する。
彼は、『ルーズベルト大統領は世界中の人々と、中立国であろうとなかろうと、すべての国に対し、ナチス政権(ヒトラー)にその絶滅政策を止めるよう要求する、人道的なアピールを行なうべきであり、さもなくば全世界が道徳的汚名に苦しむことになる』と主張するだけの、先見の明と勇気を持ち合わせていたのである。
もしホワイトハウスから、そのような声明がはっきりと発表されていたならば、ヒトラーの誇大妄想を止められたかもしれないし、少なくとも、ヒトラーの残虐さについて、おそらく全く知らないドイツ、ポーランド国民に、真相を教えることができたであろう。
〈中略〉
1943年の初めには、世界中のすべての国と政府が、ヒトラーのユダヤ人撲滅政策を知っていた。
ルーズベルト大統領と国務省は、恐るべき虐殺行為を容赦なく世界の耳目に曝(さら)すべきであったのだ。そして、すべての連合国と中立国に対し、国際法と人道にもとる、無防備の人種的、宗教的少数派を絶滅させようとする恥ずべき政策を止めさせるために、ヒトラーとナチス・ドイツに公的に影響力を行使するよう要請すべきであった。」
■■第6章:不発に終わった「バミューダ会議」(1943年)
●1942年1月、ロンドンの聖ジェームス宮で、ヨーロッパ17ヶ国の亡命政府の会議が催された時、ルクセンブルク代表を除いて、ユダヤ人虐殺をテーマに取り挙げた者はいなかった。また、その時の共同声明の中にも、ユダヤ人に対するナチスの犯罪を断罪する言葉は全く見られなかった。
連合国側の態度に憤慨した在ロンドンのポーランド亡命政府は『デイリー・テレグラフ』紙に声明文を載せ、ポーランドでユダヤ人がいかなる試練を受けているかを詳細に訴えた。一般の人々が真のユダヤ人迫害の凄惨な事実を知らされたのは、これが初めてだったと言われている。
●イギリスやアメリカでぼつぼつ市民大会が催されるようになったが、ナチスのユダヤ人迫害に対する批判が世論の形をとって起こったのは1942年も終りに近い頃、つまり、ナチスがユダヤ人迫害を開始してから10年目を迎えようという頃であった。
その時でさえイギリス政府は乗り気ではなく、(第4章で触れたように)アンソニー・イーデン外相はその年の12月の半ばに至って、ようやく下院でポーランドや東ヨーロッパで行なわれているユダヤ人迫害についての報告をした。「ヒトラー政権はどう見てもユダヤ民族を、ヨーロッパから駆逐するというかつての宣言を実行しているとしか考えられない」と。
でも、それでもなお、具体的にユダヤ人救済にはどうすればいいかという討議や、ナチスの残虐行為に対して制裁とか威嚇を検討するといったようなことは起こらなかった。
なぜ鹿の上pupulationがあります
イギリスの外務大臣アンソニー・イーデン
●「この期に及んでイギリス政府は何故、ユダヤ人救済の手を打たないのか?」
と、腹を立てた劇作家ジョージ・バーナード・ショーをはじめ、ハロルド・ニコルソンなど、作家や政治家たちが署名して抗議をしたのであったが、それに対してさえもまったく反響はなかったのである。
ジョージ・バーナード・ショー
イギリス近代演劇の確立者。
1950年に94歳で亡くなるまで53本
もの戯曲を残した。1925年に
「ノーベル文学賞」を受賞。
●ようやくイギリスが、ともに難民受け入れの政策を検討しようとアメリカ政府に提案したときも、応答を得られるまでに2ヶ月かかったのである。
そういったのんきさに業を煮やしたイギリスのカンタベリー司教は上院に、「事は急を要するのである。イギリスは直ちに入国査証制度を検討し、改正すべきである」と訴え、やっとのことでイギリスとアメリカが、バミューダで「難民対策会議」を共催したのであった。
1943年4月のことである。
●しかし、この時もイギリス政府のスポークスマン、クランボーン卿は「ユダヤ人問題ばかりに重点を置くのは誤りである」といなしており、アメリカのコーデル・ハル国務長官も「我が国はユダヤ難民に対して、特別の処置を取ることは出来ない」と、まず釘を刺したのである。
アメリカの国務長官コーデル・ハル
有名な『ハル・ノート』を日本に突き付けて、
日本政府を挑発した男。1945年に
「ノーベル平和賞」を受賞。
●この「バミューダ会議」では相変らず実行不能な空論ばかりが飛び出し、
傍聴していたイギリス自由党のエマニエル・セラーは「人間の福祉と理想を裏切る地上最低の会議」と非難した。
実際にユダヤ人の迫害が日々進行している緊急の時に、出席した28ヶ国は、英・米両国を含めて一国としてユダヤ人受け入れを了承しないばかりでなく、それを避けるために汲々としていたことを、当時の議事録は物語っている。
◆
※ 追記:
●ドイツのボン大学で日本現代政治史を研究し、論文「ナチズムの時代における日本帝国のユダヤ政策」で哲学博士号を取得したハインツ・E・マウル(元ドイツ連邦軍空軍将校)は、著書『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版)の中で
この「バミューダ会議」の実態について、次のように語っている。
(左)ハインツ・E・マウル。元ドイツ連邦軍空軍将校。
(右)彼の著書『日本はなぜユダヤ人を迫害
しなかったのか』(芙蓉書房出版)
「1942年6月、アメリカは突如入国規制を強化する。背景には市民の反ユダヤ感情、反移民感情があった。
ユダヤ人を救うことは政治目標の達成をさまたげ、戦争完遂に有害だと考えられたのだ。それに、アメリカのユダヤ人には政府の後ろ盾が欠けていた。この措置をロング国務次官が提唱したことは興味深い。ロング国務次官は東欧のユダヤ人に強い偏見をもっていた。」
「1943年4月19日、米英両国は『バミューダ会議』を開催した。
目的は戦争難民問題の解決であったが、現実には欧州のユダヤ人を助けようとするあらゆる努力を阻止することにあった。アメリカが外務省員のほかには、この問題に無知な二級政治家を代表として送ったことは、アメリカの姿勢を反映しており、ロング国務次官はこの会議で大きな役割を演じたのだった。」
■■第7章:なぜアウシュヴィッツは破壊されなかったのか?
●ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害はとどまるところを知らなかったが、これを阻止するため、アウシュヴィッツ爆撃に踏み切ってその近辺のユダヤ人殺害のルートを破壊することにより、その殺害システムに打撃を与えようとの計画があった。
そのためにスパイがワルシャワに送り込まれ、その筋の戸棚の奥深くに保管してあったアウシュビッツの詳細なレイアウトを示した図面を盗み出すことにも成功し、一方、アメリカ空軍の撮影した写真により、技術的にも戦略的にも爆撃によるユダヤ人救済の十分な可能性の見通しが立ったのである。
しかし、そのプランは「アウシュヴィッツは軍事施設ではない」という理由で、実行されなかったのであった。
アウシュヴィッツ収容所
「アウシュヴィッツ」はドイツ名であり、ポーランド名は「オシフィエンチム」。
現在のポーランド領オシフィエンチム市郊外に位置する。「アウシュヴィッツ収容所」は
「第一収容所」、「第二収容所(ビルケナウ)」(1941年建設)、「第三収容所(モノヴィッツ)」
(1942年建設)に区分され、それ以外に38の「外郭収容所」や「付属収容所」があった。
「第一収容所」はポーランド軍兵営の建物を再利用したもので、ヒムラーの指令
により1940年4月に開設され、最初の囚人はポーランド人政治犯だった。
●戦後、『アウシュヴィッツで私は14歳だった』という本を書いたアナ・ノヴァクは、1982年4月17日の『ル・ヌーベル・オブセルバトゥール』誌のインタビューに応えて、重大な証言を行なっている。
彼女の言葉によれば、アウシュヴィッツ爆撃をやらなかった連合軍はその代わりに、アウシュヴィッツで強制労働させられていた囚人たちを、機銃掃射したのだそうだ。地をはうようにしてやって来た戦闘機の群れに狙われたユダヤ人たちは、連合軍からも殺されたわけである。
「私たちユダヤ人は、強制収容施設を爆撃してくれることを、毎日どんなに待っていたか知れません。ところが、首を長くして待っていた結果がこれでした。それは、アウシュヴィッツ収容所に対して抱いていた絶望感よりも、もっともっと大きな絶望感を私たちに与えました。戦後、そのことについては誰も語りたがらないのです。連合軍は、何故あんなことをやったのでしょうか? きっと、これに答えられる人は一人もいないでしょう。」
アメリカ軍が戦時中にアウシュヴィッツを上空から撮影した写真 (1944年)
戦時中、連合軍は、アウシュヴィッツの囚人を解放する
チャンスはいくらでもあったのに、完全に黙殺した
●戦時中、連合軍は「アウシュヴィッツ第三収容所(モノヴィッツ)」の石油精製所は爆撃したようだが、囚人を逃がすことを目的にはしていなかった。
アウシュヴィッツの第三収容所=モノヴィッツ (1944年)
この収容所は被収容者を労働力とする「強制労働収容所」であり、
収容所内の工場は「I・G・ファルベン社」が操業を行なっていた。
その他にも「クルップ社」 「ジーメンス社」 「ウニオン社」
といった大企業の工場も置かれていた。
●結局、連合軍は、アウシュヴィッツの管理施設はおろか、アウシュヴィッツへ続く鉄道網を空爆することすらしなかったのだ。ユダヤ人を運ぶ移送列車の鉄道網を、「普通」に破壊するだけでもアウシュヴィッツの機能は混乱し、多くのユダヤ人が救われたというのに……。アウシュヴィッツに対して、何もしなかった。
◆
●なぜ、連合軍はアウシュヴィッツを無傷のまま「放置」したのだろうか?
この謎について、次のように説明する人がいる。
「戦時中、連合軍は、ヨーロッパ文明のただ中で、これほどの野蛮が進行しているとは信じられなかったし、信じたくもなかったのだ。『ガス室』のおぞましい実態は、戦後、明らかにされた。もし、戦時中に『ガス室』の存在を知っていたら、直ちに爆撃していただろう。」
●なるほど、このような説明は、一見もっともらしく聞こえる。
"ここで、iは、フォートベンド郡の仕事を見つけるのですか"
しかし、このような説明は鵜呑みにすることはできない。
なぜならば、戦時中、連合軍の飛行機は、アウシュヴィッツや周辺地域にポーランド語・ドイツ語の「宣伝用パンフレット」を多数ばらまいていたのであるが、そのパンフレットには、「収容所内の人々が『ガス』で殺されている」と書かれていたのである。しかも、連合国ラジオ局によってもヨーロッパに放送されてもいたのだ。
つまり、連合軍は「ガス室」の存在を知らなかったどころか、むしろ積極的に「ガス室」の存在を宣伝していたのである。しかも驚くことに、イギリスはアメリカの参戦前から「ガス室をつかった虐殺」という対ナチ・プロパガンダ作戦を展開していたのである。
アンネ・フランク
オランダにいたアンネは『日記』の中で、
「イギリスから送られてくるラジオ放送によると、
ユダヤ人はみんな毒ガスで殺されているそうです」
と書いている。日付は1942年10月9日。
●特に、「イギリス治安調整局(BSC)」という組織は、戦時中、協力関係にある新聞やコラムニストと通じて、「いかにナチスが占領地で残虐であったか」というような内容のニュースを無数に配信し、キリスト教徒のアメリカ人の同情を得るために、「ナチスが教会や修道院を破壊している」といった内容のニュースも多数流し続けた。
しかしこうしたニュースの中には、全く事実にもとづかず、はじめからイギリスの情報機関によって捏造されたものも多く含まれていた。この「対ナチ・プロパガンダ作戦」には、ハリウッドの映画製作者、作家、技術者たちも大勢参加し、立て続けに反ナチスの「プロパガンダ映画」が作られたのであった。
(※ この英米の「対ナチ・プロパガンダ作戦」の実態については、別のファイルで詳しく触れたい)。
●いずれにせよ、連合軍はアウシュヴィッツの囚人を解放するチャンスはいくらでもあったのに、恐ろしいほど完全に黙殺したのである。いや、上のユダヤ人女性の証言が正しければ、彼らは黙殺したどころか、囚人たちに機銃を浴びせたことになる……。
●半生を、ナチの逃亡者と戦犯の追及に費やしたサイモン・ヴィーゼンタールはこう語る。
「大戦中、死の収容所の存在は早い段階で西側諸国に知られていた。だが、まるで問題にされなかった。
1942年7月2日のNYタイムズ紙の記事は『100万のユダヤ人虐殺される』だった。 〈中略〉
アメリカ政府に嘆願書を送った。ナチスによるユダヤ人の移送を止め、アウシュヴィッツのガス室を破壊してくれと。しかし、集中攻撃はなかった。繰り返し爆撃が行なわれたのは郊外の工場だった。連合軍にとって、ユダヤ人の救済は優先度の低い問題だったのである。」
サイモン・ヴィーゼンタール
●ところで、「三菱化成生命科学研究所」の室長である米本昌平氏は、1989年に著わした本『遺伝管理社会──ナチスと近未来』(弘文堂)の中で、次のように述べている。
参考までに紹介しておきたい。
「……実は、アウシュヴィッツが今日見学できるのは、不思議なことなのである。この点で、M・ギンベルトは『アウシュヴィッツと連合軍』(1981年)という重要な本を書いている。ここでM・ギンベルトは、すでに1944年の後半は、ドイツの制空権の一部は連合軍の手中にあったのに、爆撃されたのは軍事施設に限られ、アウシュヴィッツ収容所には一発も落とされなかった謎を問題にしている。
確かにこれは奇怪なことである。連合軍がドイツの軍事施設ばかりか大都市までをも徹底的に破壊したのに、人類が作った最大の悪魔的施設、アウシュヴィッツがなお無傷のまま残り、しかも最近までこの不思議さに誰も気づかなかったとは……」
●また、同志社大学の名誉教授である望田幸男氏も、著書『ナチス追及』(講談社)の中で、(さらりとではあるが)次のように指摘している。
「(上の写真は)1944年8月25日に撮影されたアウシュヴィッツの航空写真。貨車に乗せられた囚人たちが写っている。なぜこの写真を撮ったときに、連合軍は貨車のレールを爆破してしまわなかったのだろう?」
●ZDF(ドイツ公共放送局)の現代史局長であるグイド・クノップ(歴史学博士)もこう問いかけている。
「1944年に、アメリカ軍の偵察機は上空9100mからアウシュヴィッツ・ビルケナウの写真を撮影しており、火葬場をはっきり確認することができた。それなのにアウシュヴィッツが攻撃を受けることはなかった。爆弾を落とさず、写真を撮ったのである。
政府の圧制に強制されたわけでもなかった人々が、何も抵抗を企てなかったのはなぜか? 連合軍はユダヤ人虐殺の開始について、非常に早い段階から情報を得ていた。彼らがドレスデンのフラウエン教会をそうしたように、アウシュヴィッツを爆撃し、虐殺機構を破壊しなかったのはなぜか?」
グイド・クノップ博士
─ 完 ─
■■追加情報: 『封印されたホロコースト』
●『封印されたホロコースト──ルーズベルト、チャーチルはどこまで知っていたか』(大月書店・5600円)という本がある。
『封印されたホロコースト』
リチャード・ブライトマン著(大月書店)
●この本を書いたアメリカン大学のリチャード・ブライトマン教授は、次のような指摘をしている。
「大西洋の両側で、対外政策担当者たち(イギリス外務省とアメリカ国務省)は、ひどい失敗をやらかした。ホロコーストを少しでも止めるような西側の行動はなかった。 〈中略〉
ナチス体制は外圧にはどちらかといえば鈍感だったが、ドイツ国民、ナチス衛星諸国、ドイツの加盟者たちは、そんなに鈍感ではなかった。最終解決の加担者に西側が確実に警告を発していたら、目に見える成果がもっと早くあがっていたはずだ。
もし1944年の夏と秋にアウシュヴィッツを爆撃していたら、それはヨーロッパのユダヤ人の殺戮に対する強い関心を、英米のそれまでのあらゆる声明や行動にまさる説得力をもって表明することになったのは確かだろう。しかし、西側政府が時間を──おおざっぱに言って1941年秋から『戦争難民委員会』の設置までの期間を──空費してしまったことのほうが、アウシュヴィッツ爆撃提案の拒否よりも、もっと基本的な誤りだったと思われる。」
この本を書いたアメリカン大学の
リチャード・ブライトマン教授
●更に、ブライトマン教授は次のように述べている。
「ホロコーストの極めて重要な準備段階についてさえ、西側の文書の一部はいまだに公衆の目に触れていない。ハインリッヒ・ヒムラーに関するイギリス陸軍省ファイルの中では、1つの文書がいまだに秘密扱いにされて抜き去られたままになっている。それは、なんと1994年までリストには"保留"と記載されていた。1943年から1945年まで帝国保安本部長官だったエルンスト・カルテンブルンナーに関する文書は、フォルダーごと非公開にされたままである。
アメリカでもこれに類したバカげた事例には事欠かない。
報道によれば、『NSA(国家安全保障局)』にはまだ非公開とされている第二次世界大戦時代の英米の文書十万ページ分があるという。戦略事務局関連文書と特定して私がFOIA(情報公開法)に基づいて出した請求や要請の一部は、4年以上もCIAの横槍で宙に浮いたままになっている。
遠い過去となった事柄についての重要情報を、歴史記録と公衆の目から隠している政府は、自国と世界に奉仕しているとはいえない。」
◆
●この本の巻末「解説」ページを担当した東京大学の石田勇治教授は、次のように書いている。
動物はネイティブのアメリカ人が撮影した
「西側連合国がナチス・ドイツのユダヤ人迫害・大量虐殺に対してどのような態度をとったかという問いは、戦後ながらく議論の対象にならなかった。1960年代初頭、アイヒマン裁判に関連して公開された一部の資料が、アウシュヴィッツに関する正確な情報をイギリスが得ていたのではないかとの疑念を惹起して注目を集めたことがあったが、本格的な研究は現れなかった。
1980年代に入って、イギリスの歴史家マーチン・ギルバートとアメリカの歴史家デイビット・バイマンがこの問題をそれぞれ別々に論じたが、本書は彼らの研究成果の延長上に書かれている。 〈中略〉 」
「ホロコーストは戦後長らく学術的な研究テーマとはならなかった。イスラエルでホロコースト研究が本格化するのはアイヒマン裁判後のことだし、ナチ犯罪者の司法訴追を続けた戦後のドイツでも、ホロコーストの実証研究は1970年代後半まで数名の学者によって細々と続けられていたにすぎない。 〈中略〉
それから20年あまり、ホロコースト研究は質的にも量的にも著しい発展を遂げた。とくに1980年代は、人権意識の鋭い、若い世代の歴史家たちの手で実証研究が進み、それまで忘れさられていた犠牲者集団にも解明の光があてられるようになった。また冷戦終結後の欧米各国ですすむ歴史の見直しと新史料の発掘は、大戦下ヨーロッパの随所にホロコーストの受益者と『共犯関係』が存在した事実を明るみに出した。 〈中略〉
今やホロコースト問題は、加害者と被害者、ドイツ人とユダヤ人だけの問題では済まなくなっているのである。」
■■追加情報 2: 映画 『戦場のピアニスト』
●2002年のカンヌ映画祭においてパルムドールに輝いた映画『戦場のピアニスト』──。
この映画は、ポーランドの名ピアニストであるウワディスワフ・シュピルマンが自らの体験を描いた回顧録を、ユダヤ人映画監督のロマン・ポランスキーが、幼い頃に直接体験したナチスの恐怖を原点に制作した作品である。
(左)映画『戦場のピアニスト』 (2002年制作)
(右)ユダヤ人映画監督のロマン・ポランスキー
彼はフランス生まれのユダヤ人で、大戦中、両親が収容所に
入れられ、自らもユダヤ人狩りの対象とされて逃亡生活を送った。
1962年に『水の中のナイフ』で監督デビュー。1968年に結婚した
女優のシャロン・テートは、チャールズ・マンソン・ファミリーにより惨殺。
1977年、自宅で13歳の少女モデルをレイプしたかどで逮捕され、
裁判で有罪の判決(実刑で50年以上)を受ける。逮捕・収監を
避けるため、映画撮影と偽ってアメリカを出国し、ヨーロッパに
渡り、そのまま逃亡犯となった。(逃亡犯としての罪は未だに
適応されるため、以後アメリカへ一度も入国していない)。
●この映画の中で印象的だったのは、作品の前半(主人公シュピルマン家の夕食の場面)で、主人公の父親が口にしたセリフである。
簡単に紹介しておきたい↓
★主人公(シュピルマン家)の夕食の場面にて=(開始28分後のシーン)
◆弟(ヘンリク): 「(兄貴は)寄生虫どもを相手にピアノ演奏か」
◆主人公: 「寄生虫?」
◆母親: 「2人ともやめて」
◆弟: 「奴らはカスだ」
◆主人公: 「なぜ?」
◆弟: 「周りで起きていることに無関心だ」
◆父親: 「アメリカが悪い」
◆主人公: 「どうして?」
◆父親: 「アメリカはユダヤ系が多い。だが何もしてくれない。大勢が飢えて死んでるのに」
◆父親: 「ユダヤ系銀行家は、政府に宣戦布告を進言すべきだ」
●ところで余談になるが、この物語の主人公であるウワディスワフ・シュピルマンの息子、クリストファー・スピルマンは日本人女性と結婚し、1998年に福岡に移住し、現在、九州産業大学の教授を務めている。
彼の専門分野は日本近代政治思想史で、特に第一次世界大戦から第二次世界大戦までの右翼思想を研究している。
彼が日本語で執筆した『シュピルマンの時計』(小学館)は
亡き父への尽きぬ思いをつづったエッセイである。
(左)ユダヤ人ピアニストのウワディスワフ・シュピルマン
(右)彼の息子クリストファー・スピルマンが書いた
『シュピルマンの時計』(小学館)
■■追加情報 3: なぜアメリカはユダヤ人の救済に消極的だったのか?
●なぜアメリカはユダヤ人の救済に消極的だったのか?
イギリスを代表する歴史家の一人、ポール・ジョンソンは著書『ユダヤ人の歴史 〈下巻〉』(徳間書店)の中で次のように書いている。
『ユダヤ人の歴史 〈下巻〉』
ポール・ジョンソン著(徳間書店)
「ユダヤ人難民を多数受け入れる能力があったのは、米国である。
ところが実際には、戦争中たった2万1000人しかユダヤ人移民を入国させていない。これは法律で定められた移民割り当て枠の10%にあたる数でしかなかった。その理由は一般大衆の反感である。米国在郷軍人会から外国戦争退役軍人協会に至るまで、愛国的団体はみな移民の全面的禁止を求めていた。
米国史上、第二次世界大戦中ほど反ユダヤ感情が高まった時期はない。世論調査によれば、1938年から1945年にかけて、人口の35〜40%が、反ユダヤ的立法を支持していた。1942年の調査によれば、米国にとって、ユダヤ人は日本人とドイツ人に次ぐ大きな脅威とみなされていた。
1942年から1944年にわたる期間に、ニューヨークのワシントン・ハイツ地区で全てのシナゴーグ(ユダヤ教会堂)が冒涜されたが、この背景には広汎な反ユダヤ感情があった。
〈中略〉
具体的な行動を取るうえで大きな障害となったのは、ルーズベルト大統領その人である。彼には多少反ユダヤ的傾向があり、しかも状況について正確な報告を受けていなかった。この問題がカサブランカ会議で持ち出された時、大統領は、『ドイツ人がユダヤ人に対し抱いている不満は、理解できるように思う。彼らは人口のごく一部しか占めていないにもかかわらず、ドイツの法律家、医者、教師、大学教授の50%以上がユダヤ人なのだから』と語った。
ルーズベルトは国内の政治情勢のみ考慮していたように思われる。(米国内の)ユダヤ人の90%が大統領を支持しており、これ以上ユダヤ人のために行動する必要を感じなかった。組織的殺戮についての事実が明らかになった後でも、大統領は14ヶ月の間、何も行動を取ろうとしない。
1943年4月、遅まきながらこの問題に関する米英会議がバミューダで開かれたが、大統領は一切興味を示さなかった。そして会談の結果、具体的な措置は何も取りえないことだけが確認されたのである。
それどころか、『難民受け入れの可能性に関しては、ヒトラーへのいかなる働きかけもなされるべきではない』との警告が発せられたのだ。」
■■追加情報 4: 『ナチからの脱出』
●なぜアメリカはユダヤ人の救済に消極的だったのか?
『ナチからの脱出』(並木書房)の著者ブライアン・リッグは次のように書いている。
『ナチからの脱出』
ブライアン・リッグ著(並木書房)
「アメリカの役人たちは、絶望的な状況に追い込まれたヨーロッパのユダヤ人たちが必死になって救いを求めても、耳を貸そうとしなかった。1938年の『エビアン会議』でドイツがユダヤ人の出国を認めるといった時も、アメリカの役人たちは応じなかった。 〈中略〉
アメリカ政府部内で働くユダヤ人も、ヒトラーの迫害に苦しむ者に対して、充分なことをしなかった。歴史家のデイビッド・ワイマンによると、ルーズベルトに近いユダヤ人の大半は、『救出を促す行動などほとんどとっていない』のである。 〈中略〉
ルーズベルトは大統領権限で移民当局にビザを発給させることもできたが、そのための必要な措置をとらなかった。さらに、外交手段や軍事手段を使ってユダヤ人殺害を阻止し少なくとも遅滞させることもできたが、歴史家ワイマンは『在欧ユダヤ人社会の計画的殲滅という歴史的重大事態に無関心であったことは、大統領としては重大な失敗」と断じた。」
「ナチ官僚はヨーロッパ列強の無関心を横目にしながら、ユダヤ人の迫害をした。悲しいかなアメリカも、ヨーロッパと同じであった。『エビアン会議』時に見られた熱のない国際社会の反応、そしてまた1938年の『水晶の夜事件』後の現象である外交圧力の欠如は、この無関心ぶりを如実に物語る。 〈中略〉
歴史家のヘンリー・ファインゴールドは、『連合軍側の無関心、無行動のおかげで、ナチ政権は世界が反ユダヤの嫌悪感を共有している、と主張できた』と書いた。もっとも、1939年時点で国際社会が圧力を加えていたらナチ政府がユダヤ人迫害計画を変えたかどうか。その答えは推測の域を出ない。だが、ひとつだけ明言できることがある。それはアメリカが1938年または1939年から移民政策を変えていたら、それだけでも1941年末までに数十万の命が救われていただろう。」
「アメリカ人が移民制限を望んだ背景には、反ユダヤ主義があったと見られる。
ルーズベルトの報道官スチーブン・アーリーは、1941年7月29日付大統領あて報告で、次のように書いている。
『完全に無視されていますが、きわめて深刻な問題があります。それはしつこい反ユダヤ感情が中枢部に静かに広がっているということであります。あちこちに到るところに感知されます。ワシントンだけでなく地方でも、市井の人々が親ユダヤ的態度に反発し、憤慨するようになっています。謎のユダヤ難民が多数流入しているとか、ほとんどの者が莫大な金を携帯し、直ちに商売を始めているとか、宗教上の不寛容のゆえにどこかの分野で優位に立つと他の人々を排除し始めるといったことが、まことしやかに信じられています……ここで宗教的憎悪が爆発しないことを祈るのみであります。しかし私には、ワシントンがこの反ユダヤ感情の増殖を認識し、留意しつつ臨機に手を打って沈静化に努めるべきと思考� ��れます』」
「戦後、トルーマン大統領は、『ユダヤ人はきわめて利己的だと分かった。ユダヤ人は自分たちが特別の扱いを受けている限り、他の人がどうなっても構わない。エストニア人、ラトビア人、フィンランド人、ポーランド人、ユーゴスラビア人、ギリシア人だって、殺され、あるいはDP(離散民)キャンプで虐待されているのだ。一方、彼らが物理的な、あるいは経済、政治的力を持っていると、ヒトラーもスターリンも、負け犬に対する残虐行為をやるための理屈をつけない』と述べている。イスラエルの熱烈な支持者にしてこの言である。
ヒトラーのもとで苦しみ殺されていくユダヤ人に、アメリカの政治家は何の救助行動もとらなかったが、トルーマンの発言からその理由がわかる。」
■■追加情報 5: 『ロシア、中・東欧ユダヤ民族史』
●現在、ハンガリーのコシュート・ラヨシュ大学で、近代ヨーロッパ史を担当しているプレプク・アニコー教授は、著書『ロシア、中・東欧ユダヤ民族史』(彩流社)の最後のページで、ホロコーストについて次のように述べている。
参考までに紹介しておきたい。
『ロシア、中・東欧ユダヤ民族史』
プレプク・アニコー著(彩流社)
「ホロコーストは狂気の一時的な勝利であった……しかし、ナチス・ドイツと戦った連合国にも重大な責任がある。
犠牲者数の多さは明らかに、反ファシズム連合諸国の断固たる措置があれば減じられたであろう。ナチスが一時的に大量殺戮を巧妙に隠蔽していたとしても、連合国政府は1944年夏に脱走したアウシュヴィッツ収容者の証言から、強制収容所における残虐行為を明確に把握できたはずである。
しかしながら、イギリスはこうした事実にもかかわらず、パレスチナの国境開放に積極的でなく、大戦当初からユダヤ人難民の乗った船舶の入港を終始妨害し続けた。
アメリカの姿勢も実質的に変わりはなかった。1940年、アメリカ議会は『アラスカ開放計画』に反対し、翌1941年には移民割当数を更に引き下げ、2万人のドイツ系ユダヤ人児童が割当を超える入国を拒否された。
1943年には英米政府が難民に『門戸開放』を行なうべく交渉したが、しかしバミューダ島の秘密会議では協定の調印に失敗した。
連合国軍は強制収容所の位置に関する正確な情報を得ていたものの、戦争の終結に専念していて、アウシュヴィッツ収容所やそれと連結する交通網を爆破するという案を棚上げしていた。このため大戦末期には、死者の数に比べて救出し得るユダヤ人の割合は、既に微々たるものになっていた。
〈中略〉
大戦後、中・東欧の大半の国々で権力の座に就いた新政府は、こうしたユダヤ人迫害を批判していたが、ユダヤ人に対する違法行為の解消や、反ユダヤ主義の原因の解明や、迫害に加担した非ユダヤ人の責任を明確化すべく、真剣に取り組んだ国はほんのわずかであった。
生き残ったヨーロッパ・ユダヤ人にとって、戦後は多くの点で新時代の始まりであった。しかしながら、その後の半世紀の歴史を返り見れば、これまで我々が考察してきた諸問題を20世紀の後半も受け継いでおり、21世紀も引き継ぐであろうことは明らかである。」
■■追加情報 6: 「収容所、爆撃すべきだった」 米大統領、ユダヤ人虐殺で
【エルサレム11日共同】 中東歴訪中のブッシュ米大統領が11日、エルサレムのホロコースト(ユダヤ人虐殺)記念館「ヤド・バシェム」を訪れた際、ナチス・ドイツによる虐殺が行なわれたポーランドのアウシュヴィッツ強制収容所を「爆撃すべきだった」と語っていたことが分かった。
案内役を務めた館長によると、大統領は目に時折涙を浮かべながら見学。
第二次世界大戦中のアウシュヴィッツ収容所の空撮写真の前に立った際、随行していたライス国務長官に、虐殺の進行を防ぐため「われわれはここを爆撃すべきだった」と述べたという。同収容所では100万人以上が虐殺された。
大戦中、米国など連合国は同収容所で虐殺が行なわれている事実を把握していたが、ナチスへの軍事作戦を優先。収容所の建物やそこに通じる鉄道線路などは爆撃せず、戦後、判断の是非が論議になった。
AP通信によると、イスラエルのホロコースト研究者は、「爆撃すべきだった」という見解を示した米大統領はブッシュ氏が初めてだと語った。大統領は記念館で「(ホロコーストの歴史は)悪と遭遇した時には抵抗しなければならないということを教えている」と述べた。(共同通信 2008/01/12)
第43代アメリカ大統領ジョージ・ブッシュ
エルサレムにあるホロコースト記念館を訪れた際、
「虐殺の進行を防ぐため、アウシュヴィッツ収容所を
爆撃すべきだった」という見解を示した。
【ソ連・東欧諸国のユダヤ人虐殺】
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