T.ウィーン体制の崩壊
1.七月革命
Q:「民衆を率いる自由の女神」を描いたドラクロア自身は七月革命に参加したのか。
A:《たとえ祖国のために戦わなかったとしても、祖国のために描くことはできる》という彼の手紙から考えると、参加していないのではないでしょうか。
Q:なぜラファイエットは権力を握れなかったのですか。
A:七月革命のもう一人の主役だった銀行家ラフィットが、ルイ・フィリップを国王に推薦し、大統領になろうと考えていたラファイエットを説得したためです。
Q:七月革命後、なぜフランスは神聖同盟から脱退したのですか。
A:革命の特徴の一つは反キリスト教です。したがってキリスト教の精神に基づく神聖同盟を認めることはできなかったのでしょう。
Q:ベルギーはどうやって独立したのですか。
A:民衆が蜂起し、市街戦によってオランダ軍を撃退しました。その背景には、ベルギーに対するオランダ語の強制、カルヴァン派の信仰の強制、それに新聞・出版に対する取り締まりがありました。
Q:リヨンの暴動というのは、何に対する暴動ですか。
A:絹織物工たちが機械の導入による大量の首切りに抗議し、ストライキを行いました。
Q:この時代、フランスでは水を売っていたそうだが、値段はどれくらいか。
A:桶1杯の水が10サンチームです。1フラン=100サンチームですから、今の交換レートで換算すれば、約1円70銭ということになります。
2.二月革命
Q:第二共和政の首班となったラマルティーヌというのは、以前何をやっていた人ですか。
A:詩人として知られていましたが、七月革命後国会議員となり、一貫して七月王政を批判していました。
Q:なぜラマルティーヌが首班になったのか。
A:自由主義・人道主義の立場に立つ国会議員で、雄弁家としても知られていたためです。
Q:第二共和政で、ブルジョアジーはなぜ社会主義者と共闘したのですか。何か得になることでもあったのですか。
A:この時点ではうまくやっていけると思ったということですね。また、革命を成功させた労働者のエネルギーを無視できなかったことも見逃せません。
3.二月革命の影響
Q:メッテルニヒはその後どうなったのか。
A:イギリスに亡命しますが、再びオーストリアにもどり、皇帝フランツ・ヨゼフ1世の顧問になります。1859年、86歳でウィーンで死にました。
Q:フランクフルト国民議会は何人くらいが参加したのですか。
A:585人です。
Q:フランスで女性に参政権が与えられたのはいつか。
A:1944年です。
Q:国立工場は運営に失敗したというが、最初何をつくろうとしていたのか。
A:当初の予定では、登録した労働者の技能に応じて仕事を与えるはずでしたが、革命後の不況のためそれが不可能になりました。
Q:国立工場は、誰によって考えられたのですか。
A:最初に考えたのはルイ・ブランですが、実施に移したのは当時の政府関係者でした。ブルジョアジーである彼らは、わざと失敗するような組織にしたともいわれています。
Q:ルイ・ブランは国外に追放されたそうだが、どこへ行ったのか。
A:イギリスに亡命しています。その後1871年にフランスに帰り、下院議員として活躍し、1882年に71歳で死んでいます。
Q:ルイ・ナポレオンがクーデターによって独裁者になった時、どんな人が反対したのですか。
A:この間、議会が普通選挙を廃止したため、ルイ・ナポレオンは普通選挙の復活を叫んでクーデターを起こしました。大多数の国民が賛成したのはそういう理由によります。反対したのはかなり強い意志を持った共和主義者ではないでしょうか。
Q:ナポレオン3世の時代、経済が大変繁栄したそうですが、その一番の理由は何ですか。
A:金融や交通制度を整備しました。またパリ万国博覧会を何度も開き、新製品の開発を奨励しました。フランスのワインは世界一という定評ができたのも、この万博のおかげでした。
Q:パリ万博には何人の人が訪れたのか。
A:520万人です。
Q:ナポレオン3世はなぜローマ共和国をつぶすために遠征したのか。
A:1)ナポレオン3世自身がイタリアに野心を持っていた。 2)ローマ共和国がローマ法王を追い出したため、「カトリックの保護者」を自認するナポレオン3世が介入した。
などの理由からです。
Q:ナポレオン3世はなぜメキシコへ遠征したのか。
A:メキシコに運河を作り、太平洋と大西洋をつなごうという構想を持っていました。
Q:ナポレオン3世はなぜインドシナを侵略したのか。何か利益があったのか。
A:一つはゴム、米、バナナ、チーク材など農産物の産地として、もう一つはフランス製品を売りさばくための市場としてです。
Q:ウィーン3月革命の内容を教えて下さい。
A:1)憲法を制定した。 2)検閲を廃止した。 3)農奴制を廃止した。などです。
Q:青年イタリアの構成メンバーを教えて下さい。
A:民衆、特に労働者に加入を呼びかけ、1833年には6万人の党員がいました。40歳以下という参加資格がありました。
4.イギリスの改革
Q:当時イギリス全土の何%くらいが腐敗選挙区になっていたのですか。
A:513議席中の143議席でした。ちなみに、地盤沈下で水没してしまった選挙区があるかと思えば、人口10万を超える新興工業都市マンチェスターの議員定数はゼロでした。
Q:女子制限選挙で、どんな女性が選挙権を持っていたのですか。
A:男子の場合から類推して、一定以上の税金を納めている女性、あるいは一定以上の税金を納めている男性の妻、娘ではなかったでしょうか。
Q:教科書に《チャーチスト運動の指導者として、オブライエンやオコンナーなどがいる》とあります。他には誰がいたんですか。
A:ラヴェット、アトウッドなどという人がいました。
Q:穀物法はいつ作られたのか。
A:1815年です。
Q:輸入穀物にかかった税金はどれくらいか。
A:輸入価格に応じて、1クォーター(288リットル)につき、2シリング6ペンスから24シリング3ペンスでした。
Q:穀物法でいう穀物とはどのようなものか。
A:小麦、大麦、ライ麦、オート麦、豆、トウモロコシです。
Q:ロンドンの万国博にはどんな物が展示されていたのですか。
A:全世界から1万3000点を集めた、ということしかわかりません。
Q:ロンドンの万国博はどの程度の規模だったのですか。
A:入場者数は600万人だったようですが・・・。
Q:この時代にレジャー旅行が始まったらしいが、慰安旅行や新婚旅行はいつ頃からあるのか。
A:鉄道が普及する19世紀半ば以降と推測されます。慰安旅行は日本独特のものではないでしょうか。なお、日本の新婚旅行第1号は坂本竜馬で、行き先は宮崎の高千穂でした。
Q:イギリス人は18世紀まではコーヒーをよく飲んだそうだが、それ以降はなぜ紅茶をよく飲むようになったのか。
A:コーヒーの栽培でオランダとの競争に敗れたため、インド・スリランカの紅茶に力を入れるようになりました。そういう事情が反映していると思われます。なお、コーヒーに砂糖を入れて飲むのはオスマン・トルコに始まります。その影響を受けたヴェネツィアからヨーロッパに広まりました。
Q:ディズレーリとグラッドストーンはそれぞれどんなことをしたのか。
A:ディズレーリ・・スエズ運河の株買収。 グラッドストーン・・普通選挙法。あとアイルランド問題に取り組みました。
Q:ロスチャイルドはもうかったお金をどのように使ったのですか。また、その後どうなったのですか。
A:さまざまの分野、たとえば鉄道、石油、ダイヤ、ワインなどに投資し、さらに財産を増やして繁栄しています。ダイヤモンドのデビアス、石油のロイヤル・ダッチ・シェルは、いずれもロスチャイルドが出資しています。
Q:このころはやっていたスポーツは何ですか。
A:フットボール、クリケット、ゴルフ、ボクシング、ボートなどです。18世紀のイギリスは、近代スポーツが成立した国でした。
5.社会主義の発達
Q:ロバート・オーウェンは成功だの失敗だのすごい人生を送ったようだが、自分の家族はいたのか。
A:結婚していて、子供も7人いました。
Q:ニュー・ラナークの模範工場では何人の人が働いていたのか。
A:2000人です。
Q:ニュー・ラナークの模範工場では何を作っていたのか。
A:綿織物です。
Q:ドイツの空想社会主義者ヴァイトリングはどんなことをしたのか。
phungホアンを殺した
A:アメリカで共産村の実験を行い、失敗しています。
Q:マルクスの『資本論』はえらく長いらしいが、書くのにどれくらいかかったのか。
A:1861年から死ぬまで、22年かかっています。第二巻・第三巻は未完成で、エンゲルスが整理して出版にこぎつけました。
Q:マルクスは結婚していたそうだが、エンゲルスはどうだったのか。
A:正式には結婚していません。アイルランド生まれのバーンズ姉妹を次々に愛人にし、同棲していました。
Q:第一インターナショナルは、どこの国の人がどれくらい参加したのですか。
A:1866年、スイスのジュネーヴで開かれた正式の第1回大会には、4ヶ国から60名が参加しています。
Q:第一インターナショナルは、具体的にどんなことをしたのか。
A:労働組合の意味づけを行うとともに、8時間労働を主張しました。また各国のストライキを指導しました。
U.自由主義と民族主義の発達
1.アメリカ合衆国の発展
Q:フェデラリスト(連邦主義)、リパブリカン(反連邦主義)を支持したのは、それぞれどんな人ですか。
A:単純化していえば、フェデラリスト・・・北部の商工業者
リパブリカン・・・・南部の大農場主
ということになるでしょう。
Q:なぜナポレオン戦争が原因で米英戦争が起こったのか。
A:アメリカがフランスと貿易することを警戒したイギリスが、アメリカを海上封鎖したため起こりました。
Q:米英戦争でアメリカは経済的独立を達成したというが、木綿工業が発達した以外にどんな産業があったのか。
A:馬車・服・帽子の製造などがあります。
Q:白く塗られる前のホワイトハウスは何と呼ばれていたのですか。
A:プレジデント・ハウス、またはプレジデント・マンションです。
Q:ホワイトハウスを設計した人は誰ですか。
A:ジェイムズ・ホーバンという人です。
Q:モンロー宣言をヨーロッパの人々は聞き入れたのか。
A:強制力がないにもかかわらず、各国は認め、かつ守ったようです。イギリスがこれを支持したことがその背景にあったかも知れません。
Q:ジャクソン大統領は、どんなことをしたのですか。
A:銀行の力を抑えたこと、関税法を制定したことなどでしょうか。
Q:アメリカはフランスからルイジアナを、スペインからフロリダを買ったそうですが、どれくらいの値段で買ったのですか。
A:ルイジアナは210万平方キロメートルを1500万ドルで買いました。
フロリダは500万ドルで買いました。面積は書いてありません。
Q:スペインはどうしてアメリカにフロリダを売ったのか。
A:スペイン領のフロリダには南部の黒人奴隷が逃亡し、いくつもの根拠地を作っていました。そこへ南部の軍司令官アンドルー・ジャクソンが侵攻したため、領土紛争が起こりました。両国で交渉した結果、アメリカが買収することで問題の解決が図られたというわけです。
Q:ゴールドラッシュの時、全部でどれくらいの金が取れたのか。
A:1851年に5500万ドルということしかわかりません。
Q:インディアンはどれくらいいたのか。
A:16〜17世紀、南北アメリカ大陸で1500万人と推測されています。アメリカ合衆国に限っていえば、1845年頃には115万人いたそうです。それが1870年には2万5000人になっていました。
Q:なぜオクラホマだけがインディアンに残されたのか。
A:わかりません。オクラホマはインディアンの古代文化が栄えた土地で、そのことが関係しているかも知れません。
Q:一番最後まで戦ったインディアンは誰ですか。
A:戦ったのではありませんが、1877年、カナダへの脱出をめざし、国境目前でアメリカ軍に捕らえられたジョゼフ首長が有名です。
Q:現在、インディアンはどれくらいいるのか。
A:1990年の国勢調査では、インディアン系の人口は196万人となっています。
Q:ジェファソンとリンカーンの間の大統領にはどんな人がいたのか。
A:次の通りです。
1817〜1825モンロー 1825〜1829アダムズ 1829〜1837ジャクソン 1837〜1841ヒューレン 1841〜1845タイラー 1845〜1849ポーク
1849〜1853テイラー 1853〜1857ピアーズ 1857〜1861ブキャナン
Q:黒人奴隷は、どれくらいの値段で売られていたのですか。
A:いちがいにいえません。成人男子の平均価格でいうと、
ヴァージニア | ニューオリンズ | |
1800年 | 350ドル | 550ドル |
1840年 | 750ドル | 1050ドル |
1860年 | 1250ドル | 1800ドル |
となっています。
Q:ミズーリ協定を作ったのは誰か。
A:イリノイの上院議員トマスという人が提案しました。
Q:カンサス・ネブラスカ法は、誰が作ったのですか。
A:リンカーンと選挙で戦った民主党のダグラスでした。
Q:共和党結成で中心となった人は誰ですか。
A:ジョージ・ジュリアン、サマン・チェイスらが指導者でした。
Q:リンカーンの家族構成を教えて下さい。
A:父、母(二度目)、姉、弟、そして二度目の母の連れ子が3人いました。
Q:リンカーンの奥さんについて教えて下さい。
A:メアリ・トッドといい、ケンタッキーの名門出身です。社交的・派手好きで、リンカーンとはまったく正反対の性格でした。恋愛結婚ですが、なぜ二人がそうなったのか、まったく理解できないといわれています。
Q:リンカーンには子供は何人いたのですか。
A:男の子4人です。うち1人は4歳で死んでいます。
Q:アメリカの大統領選挙の方法を教えて下さい。
A:有権者が選挙人を選び、選挙人が大統領を選ぶという間接選挙です。選挙人は各州の上下両院の議員数と同じ538名で、その過半数の票を獲得すれば当選です。
Q:リンカーンは史上最低の得票率で当選したそうだが、得票はどれくらいだったのか。
A:186万6452票、得票率は40%でした。
Q:南部はなぜリッチモンドを首都にしたのですか。
A:ヴァージニアの州都として繁栄していたためと推測されます。
Q:ゲティスバーグの戦いの時の南軍・北軍の将軍は誰か。
A:南軍・・・リー、北軍・・・ミードです。
Q:ゲティスバーグの戦いで戦死したのは4万3000人だが、兵士は全部で何人いたのか。
A:北軍8万6000人、南軍7万5000人、計16万1000人でした。
Q:リンカーンが殺された劇場の名前は何だったのか。
A:フォード劇場です。
Q:リンカーンは何の劇を見ている時に殺されたのか。
A:「アメリカのいとこ」という題名の喜劇でした。
Q:リンカーンが暗殺された時、シークレット・サービスはいたのか。
A:いました。しかし、さぼって酒を飲んでいました。
Q:リンカーンを殺した犯人はどうなったのか。
A:用意していた馬で逃走しましたが、11日後、農家の納屋に隠れているところを射殺されました。
Q:必ず悪いことが起こるのがジンクスだとしたら、必ずよいことが起こるのは何ですか。
A:ALTのスチュアート先生に聞いてもらいました。good luckしかないだろう、とのことでした。
Q:奴隷が解放された時、その人数はどれくらいだったのですか。
A:1860年当時、南部に400万人いました。
Q:解放された黒人はどうやって暮らしていたんですか。
A:結局は安い労働力として工場で働くことになります。
Q:黒人が選挙権をもらうためにテストをしたという事だが、どんなテストだったのか。
A:読み書きテストでした。
Q:最初に奴隷制を破棄したのはどこですか。
A:中南米諸国は独立とともに奴隷制を廃止しています。イギリスは1833年に奴隷を廃止する法律を作っています。
Q:大陸横断鉄道はどこからどこまでなのか。
A:中央太平洋鉄道の場合、ニューヨーク〜サンフランシスコでした。
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Q:大陸横断鉄道でアメリカを横断するには、どれくらいの時間がかかるのですか。
A:ニューヨーク発セントルイス経由ロサンゼルス行き(約5000キロ)は、約60時間です。
Q:大陸横断鉄道の建設をしたのはどのような人たちだったのか。
A:苦力(クーリー)と呼ばれる中国人労働者を大量に投入しました。
Q:ワシントンD.C.のD.C.とは何の略か。
A:District of Columbia(コロンビア特別区)の略です。
Q:ミシシッピ川は有名な川だが、その川を境界線としている州は、洪水などで地形が変わった場合、土地の所有についてはどのように決めるのか。
A:国内の境界線はほとんど問題になりません。国境の場合は地形の変動にかかわらず、従来通りとするそうです。例外として、アメリカ・メキシコの国境は、40年に一度見直すと約束しているそうです。
Q:ペリーが日本へ来た時、通訳はどうしたのか。
A:オランダ語を間にはさんで通訳したのではないでしょうか。
Q:日本に初めて英語を伝えた人は誰なのか。またその人は英語をどうやって日本語になおしたのか。
A:日本に最初に来たイギリス人は1600年、ウィリアム・アダムズです。きちんと翻訳して伝えたという意味では、ジョン万次郎でしょうか。
2.イタリアの統一
Q:イタリアという名前はどこからついたのですか。
A:ギリシア語で牛を意味するイタロスからきています。なぜ牛なのかはわかりませんが・・。
Q:ヴィットリオ・エマヌエレ2世は何歳で即位したのか。
A:29歳です。
Q:イタリア統一戦争の時、オーストリア軍を指揮していたのは誰ですか。
A:ギューライという人でした。ちなみにこの戦いは双方の死者が4万人という大激戦でした。
Q:ガリバルディはなぜ赤シャツを着ていたのですか。
A:個人的に赤シャツが好きだったそうです。この結果、赤シャツがイタリア統一のシンボルとなりました。
Q:ガリバルディは領土を譲った後どうしたのか。
A:政界から引退しました。しかしその後も義勇軍の隊長として、ヴェネツィア奪還と法王領併合に情熱を燃やします。しばしば政府と衝突し、逮捕されたこともあります。普仏戦争の時にはフランス軍に加わってプロイセンを破っています。晩年は国会議員でした。
追伸・・南北戦争の時、リンカーンは彼を北軍の司令官として迎えようと考えたのですが、ガリバルディの方が断っています。
3.ドイツの統一
Q:ドイツという名前はどこからついたのですか。
A:ラテン語に対する「民衆の言葉」という意味で、似たような言葉を話す地域をひとまとめにして呼んだものです。
Q:ビスマルクが鉄血宰相と呼ばれたのは何歳の時か。
A:47歳です。
Q:普墺戦争はどのくらいの兵力で戦ったのか。
A:サドヴァの戦いでは、プロイセン軍22万、オーストリア・ザクセン連合軍21万5000でした。
Q:ビスマルクとナポレオン3世が密約を結んだ場所はどこか。
A:ビアリッツです。
Q:スペイン王位継承問題で、結局誰がスペイン王になったのか。
A:サヴォイの王子・アマデオという人です。
Q:セダンの戦いで降伏したナポレオン3世はその後どうなったのか。
A:ブロイセンの捕虜になった後、イギリスに亡命し、そこで死にます。
Q:コニャックというのは何ですか。
A:コニャック地方特産のブランデーの名前です。
Q:賠償金50億フランというが、日本円でどれくらいか。
A:2001年10月12日現在のレートで計算すると、850億円になります。
Q:ドイツ帝国は22の君主国と3つの自由市からなる連邦国家だそうですが、3つの自由市とはどこですか。
A:ハンブルク、リュベック、ブレーメンです。
Q:ドイツ帝国の22の君主国には、どんな国があるのですか。
A:バイエルン、ザクセン、ハノーヴァー、ヴュルテンブルク、メクレンブルク、オルテンブルク、ヘッセン、バーデン、シュレスウィヒ、ホルシュタインなどがあります。
4.ビスマルク体制
Q:三帝同盟と三国同盟に分けた理由がドイツ・オーストリアにはあったのか。
A:三国同盟は三帝同盟を補強する物として結ばれました。三帝同盟はロシアを、三国同盟はイタリアを、それぞれフランスから引き離すことを目的としていました。
Q:文化闘争で、カトリックに対する弾圧にはどのようなものがあったのか。
A:1)教会で反プロイセン宣伝を行わない。2)教会は裁判に干渉しない。3)聖職者の任免権は国にある。4)出生届・死亡届・結婚届の提出は国へ移す。5)文化闘争に反対する聖職者は逮捕する、などです。
Q:三帝同盟は、なぜ一度つぶれてまた元にもどったのか。
A:当初からこの三国の間には利害の対立があったのですが、東方問題をめぐる対立から1878年頃に崩壊しました。しかしフランスを孤立させるために、ビスマルクが努力して復活にこぎつけました。
Q:ウィルヘルム1世の息子(フリードリヒ3世)は即位してすぐ死んだそうだが、何で死んだのか。
A:喉頭ガンです。57歳でした。
Q:ビスマルクは引退後どうなったのか。
A:幸福な家庭生活を送りました。しかし新聞を利用して政府を攻撃したり、国会議員として全国遊説を行ったりしています。自分を首にしたウィルヘルム2世に対し、最後まで反対し続けたそうです。1898年、84歳で死んでいます。
Q:森鴎外を追っかけてきた彼女の名前は何というのか。
A:エリーゼという名前だったそうです。小説『舞姫』では踊り子エリスとなっていますが、実際は中流階級の娘でした。
5.東方問題
Q:第一次エジプト事件で、なぜエジプトはトルコへ侵入したのか。
A:シリアを併合するためでした。しかし第二次エジプト事件の後、領土は従来のエジプトにもどります。なお、エジプトの指導者ムハンマド・アリーはセルビア人でした。
Q:ロシアとトルコは1831年の第一次エジプト事件の時には条約を結んで協力しているのに、1877年の露土戦争で敵対しているのはなぜか。
A:1831年は純粋な協力関係ではありません。ロシアは地中海へ進出するという目的のために、ある時はトルコに協力し、ある時は戦っています。
Q:クリミア戦争では何人の死者がでたのか。
A:2万2000人です。
Q:クリミア戦争の指導者は誰ですか。
A:ロシア皇帝ニコライ1世、オスマントルコ皇帝アブドゥル・メジト1世をあげておきましょう。
Q:ナイチンゲールの時代、看護婦は一般の人から見るといやがられる仕事だったと聞いたことがありますが、本当ですか。
A:はい。当時の病院は不潔そのもので、床と壁は血と糞便がしみこみ、患者は虫と汚物にまみれ、病室は吐き気を催す悪臭で一杯でした。また看護婦は医者と関係を持つなど生活の乱れた人が多く、上流社会に生まれたナイチンゲール行く場所ではないと考えられていました。
Q:この時期、ロシアが国内の政策よりも優先して各国とさかんに戦争しているのはなぜか。
A:次のようなことが考えられます。1)オスマン・トルコが衰えてきたので、この機会に南下政策を推進しようとした。 2)国内の革命運動から民衆の目をそらせるために、戦争を利用した。
Q:五ヶ国海峡条約の五ヶ国とはどこですか。
A:イギリス、フランス、オーストリア、ロシア、プロイセンです。
6.パリ・コミューン
Q:パリ・コミューンの指導者たちは、どんな役職についたのですか。
A:内閣に相当する執行委員会です。
Q:パリ・コミューンはどのような政策を行ったのですか。
A:空き家を家のない人々に分配する、工場を労働者で管理する、公共事業も民衆の手で運営する(鉄道、郵便、貨幣など)、無料の義務教育を行うなどです。
7.ロシアの改革
Q:農奴は人口のどれくらいの割合でいたのか。
A:3分の1以上だそうです。
Q:皇帝を倒すいくつかの計画は誰が考えたのか。
A:「人民の意志」党という組織です。
Q:暗殺されたアレクサンドル2世は自分が狙われていたのに気づかなかったのですか。
A:気づいていたはずです。皇后は御者に《何かあったら全力で馬車を走らせよ》と指示していたそうですが、この日は守られませんでした。
Q:アレクサンドル2世は何歳で暗殺されたのか。
A:63歳です。
Q:そんなに何度も爆破事件を起こして皇帝暗殺に失敗しているのに、犯人は逮捕されたりしなかったのですか。
職場では何をするか落ちる
A:爆破まで行ったのは2回だけです。その都度メンバーが逮捕されていますが、他のメンバーが計画を続行しました。
Q:テロリズムに指導者はいたのですか。
A:ヴェーラ・ザスーリチ、ステプニャーク、ゴールドベルク、ゲルシェニなどがいます。
Q:ネチャーエフに指示したバクーニンはその後どうなったのですか。
A:革命の宣伝と蜂起を繰り返し、ネチャーエフ事件の7年後、1876年にスイスで死にました。マルクスの第一インターナショナルにも参加しましたが、ケンカ別れしています。
8.19世紀の文化
Q:ドイツの医学はいつごろから発達してきたのか。また、その理由は何か。
A:19世紀からです。ミュラーという人が多くのすぐれた弟子を育てた、ということしかわかりません。
Q:第1回近代オリンピックには、どんな競技があったのですか。また、女子の参加が認められたのはいつですか。
A:陸上、水泳、自転車、フェンシング、体操、射撃、レスリング、ウェートリフティング、ローンテニスでした。女子の参加は、1900年の第2回パリ大会からです。ローンテニスとゴルフに6名が参加しています。
Q:ロンドンで開かれた万博には、日本からも出品したと聞いたことがあるが、どんなものを出したのか。
A:ロンドンではなく、1867年のパリ万博です。薩摩の島津藩が「琉球薩摩王国」というものをでっち上げ、徳川幕府を出し抜いて参加したことで知られています。日本史の先生に聞きましたが、残念ながらわかりません。絹、ウルシ、鎧、甲、日本刀などではなかったかと想像されます。
Q:ベートーヴェンに「エリーゼのために」という曲があるが、エリーゼとは誰のことですか。
A:ベートーヴェンが結婚を申し込んでみごとに振られた女性の名前といわれています。
Q:モールス信号は、誰が、どうやって、何のために作ったのですか。
A:アメリカのモールスが考案しました。電信機を用いて通信するための手段です。モールスは本来画家でしたが、ヨーロッパからアメリカへ帰る船の中で発明家のジャクソンという人と知り合い、電気のパルス信号はどんなに長い回路でも伝わるという話を聞き、思いつきました。しかし彼が作ったのは数字を組み合わせたもので、その後、彼の協力者でもあったアルフレッド・ヴェイルが現在の形の信号を発明しています。したがってモールスはアイディアだけで、実際に発明したのはヴェイルということになるでしょう。
ちなみに、日本の符号はこうなっています。
イ ・― ニ ―・―・
ロ ・―・― ホ ―・・
ハ ―・・・ ヘ ・
Q:ロダンの「考える人」は、裸で何を考えているのか。
A:知的挫折感にとりつかれ、行動不能の状態に陥っている人間の姿を表したものだそうです。
Q:貴婦人がつけていたコルセットというのは何のためのものだったのですか。
A:腰を限界まで細くし、スタイルをよく見せるためのものでした。
V.列強侵略下の中国
1.アヘン戦争
Q:どうして中国は外国貿易を一港に制限したのですか。
A:キリスト教の布教を禁止するとともに広州一港に制限しました。
Q:アヘンはいったい誰が発見したのか。
A:わかりません。古代ギリシア時代、すでに麻酔薬として使われていました。
Q:アヘンを焼かれた商人たちは、どれくらいの損害を受けたのですか。
A:240万ポンドと推計されています。
Q:アヘンの値段はどれくらいか。
A:林則徐が没収したアヘン2万箱の賠償金が600万ドルとなっていますから、1箱300ドルの計算になります。1箱は30キロですから、単純計算で1キロ5ドル、2001年11月のレートで約600円となります。
Q:林則徐はアヘンを没収して処分したというが、本当にすべてのアヘンを処分できたのか。
A:すべては無理です。広州の沖合には2万箱のアヘンを積んだ母船が待機しており、これを捕らえることはできませんでした。
Q:アヘンを吸っていたのは、中国の人口の何割くらいだったのですか。
A:アヘン1箱は100人の1年分に相当します。アヘン戦争直前には4万箱が密輸入されていましたから、単純計算で400万人分です。当時の人口は約4億人ですから、1%ということになります。
Q:林則徐が解任されたのは何歳の時か。
A:55歳です。
Q:林則徐はどうやって敵であるイギリスのことを調べさせたのか。
A:部下を香港の外国人居留区に派遣しています。彼自身も足を踏み入れ、居留区の様子を視察したことが日記に記されています。
Q:林則徐はその後どうなったのですか。
A:10年後、太平天国の乱が起こると再び起用されましたが、討伐に向かう途中で亡くなりました。洪秀全が書いた手紙を読み、そのショックで死んだという話もありますが、これは伝説のようです。
Q:治外法権は日本でも行われていたそうですが、日本、中国でこれが廃止されたのはいつですか。
A:日本1911年、中国1928年です。
Q:南京条約は南京のどこで結ばれたのか。
A:長江に浮かぶ軍艦の上でした。
Q:南京条約の内容は今も続いているのですか。
A:いいえ。その後の交渉で徐々に廃止されていきます。最後まで残ったのが香港ですが、これも1998年に中国に返還されました。
Q:400万両というのはどれくらいの金額か。
A:1両は銀37グラムです。現在(2002年10月)の値段は約17円ですから、1両は約630円、400万両は25億2000万円となります。
2.太平天国の乱
Q:客家(はっか)の円楼というのはどれくらいの大きさなのか。
A:直径17メートルから100メートル、3〜4階建てです。
Q:太平天国で洪秀全が作った「十款の天条」とはどういうものか。
A:モーゼの十戒に基づくもので、姦淫・うそ・まじない・殺人・盗み・迷信・トバク・アヘン・飲酒・略奪を禁じています。
Q:纏足を一番初めに行ったのは誰か。
A:五代十国の一つ・南唐の最後の皇帝・李U(いく)です。
Q:纏足した女性はどこへでも嫁に行けるということでしたが、そんなペット化した人を嫁にもらって、相手は困らなかったのですか。
A:地主や金持ちがもらいます。したがって家事はすべて召使いがやります。
Q:郷勇(義勇軍)の人数はどれくらいか。
A:湘勇は1万7000人、淮勇は5万人でした。
Q:常勝軍の人数はどれくらいか。
A:5000人でした。
Q:外人部隊には、イギリス以外の国も参加していたのか。
A:アメリカ人、フランス人が含まれていました。
Q:外人部隊の給料はいくらぐらいだったのですか。
A:ゴードンの月給は260ポンド(99年10月のレートで約47,000円)でした。一般兵士についてはわかりませんが、郷勇の倍の給料だったそうです。合計5,000名分の費用は130万ポンド(同じく約2億4000万円)に達しました。
Q:洪秀全は自殺したらしいが、どんな方法で自殺したのか。
A:一般に服毒自殺といわれていましたが、最近の研究では栄養不良による病死だとされています。
3.列強の侵略
Q:アイグン条約の中心人物は誰か。
A:ロシア側の代表はムラヴィヨフです。
Q:このころ中国は賠償金をたくさん取られているけど、お金は大丈夫だったのか。
A:税金でまかなっています。特に太平天国鎮圧のために設けられた釐金(りきん)と呼ばれる国内の商品流通税が当てられました。
Q:1856年、広西省に不法入国したフランスの宣教師が清の官憲に殺されたそうだけど、何という名前の人だったのか。
A:シャプドレーヌといいます。
Q:なぜヨーロッパ諸国はキリスト教を広めたのですか。
A:自分達は文明人であり、野蛮なアジア・アフリカ・中南米の人々にキリスト教を布教し、文明化してやるのは当然の義務であり権利である、という思い上がりからです。
Q:洋務運動の資金はどのように用意したのか。
A:関税収入と上海財界の出資、それに釐金(国内関税)です。
Q:清の宗主権とはどういうものか。
A:清がその国の後見人として、1)王位を認める。2)相手国は清の家臣となり、何年かに一度ずつ贈り物をする。
という関係です。
Q:「宗主権下におく」というのと「保護国化する」というのはどう違うのか。
A:支配の強さの順に書けば、属国>保護国>宗主権ということになるでしょう。
Q:ベトナムの阮朝を建てた阮福映は、フランス人宣教師ピニョーに助けられたということだが、二人はどんな風に知り合ったのか。
A:阮福映がハティエンという町に逃げた時、そこで出会ったそうです。
Q:フランスのベトナム侵攻に対し、阮朝は余り抵抗しなかったが、黒旗軍や農民たちが抵抗した、とある。この抵抗で何かフランスへの影響はあったのか。
A:これに苦しんだフランスは早めに清仏戦争を打ち切り、条約を結びました。清もこれに応じて黒旗軍を解散させました。
Q:清仏戦争は具体的にどこで戦闘になり、どれくらいの死者が出たのか。
A:福州、台湾、広西省(ベトナムとの国境地帯)などで戦われました。死者の数はわかりません。
Q:なぜ日本は外国から侵略されなかったのか。
A:地理的な条件と日本が強力な軍事力を備えていたことでした。安土・桃山時代の日本は、世界でも屈指の鉄砲大国だったのです。
Q:日朝修好条規をむりやり結ばせた日本の指導者は誰か。
A:黒田清隆、井上馨の二人です。
Q:金玉均というのはどういう人ですか。
A:両班(ヤンパン)と呼ばれる特権身分の出身で、若い時から秀才として知られていました。二度にわたる訪日で日本をモデルとする改革を志しました。一方、事大党の人々からは諸悪の元凶として嫌われていました。
Q:金玉均の行った開化党のクーデターは3日間で清に鎮圧されてしまったそうだが、その間、彼は何をしていたのか。
A:王宮を占領し、当時権力を握っていた閔妃派を追放し、新政権を樹立しました。
Q:金玉均はどれくらい日本に亡命していたのか。
A:約10年です。
Q:クーデターを鎮圧された開化党はその後どうなったのか。
A:日清戦争が始まると、日本の後押しで内閣を組織します。その後は日本の朝鮮侵略を手助けする役割を果たします。
Q:このころの朝鮮では高宗の父・大院君と王妃・閔妃一族が対立していたというが、その原因は何か。
A:外交政策をめぐる対立です。大院君が鎖国政策の継続主張したのに対し、閔妃は開国をめざしていました。
Q:1886年のノルマントン号事件で、日本人乗客23人を残してイギリス人は全員ボートで逃げたのに、なんで船長は無罪になったのですか。
A:イギリス領事が裁判を行い、無罪の判決を下しました。これが領事裁判権(治外法権)です。
Q:東学には何人くらいの人がいたのですか。
A:最初に反乱を起こしたのは1000人余りでした。反乱前の教団の集会には、2万人余りが参加したそうです。
Q:甲午農民戦争は何日くらい続いたのですか。
A:約4ヶ月です。
Q:黄海海戦の時の日本の主力艦の名前は、またその性能は?
A:戦艦松島と千代田です。速度と大砲の数でまさっていたということしかわかりません。
Q:戦艦で一番大きな大砲を主砲というそうだが、他にはどんな大砲があるのか。
A:副砲、高角砲があります。
Q:下関条約の会議は、なぜ料亭で行われたのですか。
A:すぐ下に関門海峡があり、そこを日本軍の輸送船が朝鮮へ次々に向かっていくのが見えました。李鴻章にその様子を見せ、圧力をかけるためと推測されます。
Q:下関条約で、重慶・杭州など五港を開港したそうですが、あと三港はどこですか。
A:四港の間違いでした。失礼しました。あと二港は蘇州と沙市です。
Q:台湾の独立運動の時、台湾側はどれくらいの死傷者を出したのか。
A:1898年からの5年間で少なくとも1万2000人が殺されています。
Q:三国干渉の時のロシアの代表は誰か。
A:中心となったのは大蔵大臣のウィッテでしょう。
Q:三国干渉で、ロシアはわかるけど、フランス・ドイツはなぜ日本に干渉したのですか。
A:基本的にロシア一国では角がたつから、他の国を誘ったわけです。フランスはロシアと同盟を結んでいたし、ドイツは中国への野心を持っていました。
Q:薬の正露丸は誰が作ったのか。
A:1902(明治35)年に中島佐一という人が製造・販売を始めました。最初の名前は「忠勇征露丸」でした。1946(昭和21)年、大幸薬品がその製造・販売を継承し、1949(昭和24)年に現在の「正露丸」となりました。
Q:勢力圏の設定に当たって、各国の争いなどはなかったのか。
A:はい。お互いに協定を結んでいます。
Q:なぜイギリスはミャンマーに目をつけたのか。
A:宝石、特にルビーとサファイアの世界的な産地だったからです。
Q:フランスはラオスを併合しているが、このラオスとはどういう国だったのか。
A:ラオとはタイ語で「人間」を意味します。1353年プラヤ・ファ・グムにより建国されました。
しかし実際には北のルアン・プラバン王国と南のヴィエンチャン王国に分裂し、対立を繰り返していました。結局ルアン・プラバン王国は15世紀にベトナムに、ヴィエンチャン王国は16世紀にミャンマーに
占領されます。18世紀に復興しましたが、南北の対立はあい変わらず、ルアン・プラバンはベトナム、ヴィエンチャンはタイの援助を受け、抗争が続きました。1886年、清仏戦争後の天津条約でフランスはルアン・プラバンを獲得し、1893年にはタイからヴィエンチャンを譲り受けて全ラオスを植民地化しました。その後ラオスは1953年に独立、1975年の人民革命後、ラオス人民民主共和国として社会主義政権下にあります。
Q:ヨーロッパの強国が東南アジアを分割した時に、どうしてロシアは参加しなかったのか。
A:1)ロシアから遠すぎ、維持・運営が大変。 2)気候・風土が違いすぎてなじまない。
などの理由からではないでしょうか。
Q:スエズ運河の工事にはどれくらいの金がかかったのか。
A:当時の金で4億フランです。
Q:スエズ運河はどれくらいの大きさなんですか。
A:幅22メートル、深さ8メートル、全長162,5キロです。
4.半植民地への道
Q:光緒帝はどういう人か。
A:4歳で即位し、17歳までは西太后が実際の政治を行っていました。しかし西太后はその後も彼に対する監視と干渉を続けました。この対立が戊戌の改革をめぐって爆発したといえます。監禁されて10年後に死にますが、西太后もその翌日に死んでいます。
Q:西太后の夫は誰か。
A:清朝第9代皇帝・咸豊帝です。
Q:西太后はどれくらいの期間実権を握っていたのか。
A:34年間です。
Q:西太后はどんな性格だったのか。
A:美人で頭がよく、政治の才能がありました。反面、権力欲がきわめて強く、いったん握った権力は絶対に手放さない独裁者でした。利用できるものは何でも利用し、邪魔者は必ず倒しました。熱心な仏教信者でありながら、気にくわない召使いを何人も殺しています。ぜいたくな生活で国力を消耗したことも見逃せません。自分の子供である同治帝を殺し、甥に当たる光緒帝を監禁し、殺したことも書き添えておきましょう。また清朝最後の皇帝・宣統帝を指名したのも彼女でした。
Q:西太后は何歳で死んだのか。
A:73歳です。
Q:康有為はどういう性格だったのか。
A:きまじめな情熱家ということになるでしょう。大胆な改革を提案する進歩的な面もありましたが、本質的には清王朝を守り抜こうという保守的な考えの持ち主でした。
Q:康有為は日本に亡命した後、どうなったのか。
A:西太后の死後、中国に帰りました。その考え方はしだいに後退し、革命を推進する孫文の運動を妨害する役割をはたしました。
Q:利権回収運動の資金はどのように集めたのか。
A:株式により、一般民衆から資金を集めました。
Q:利権回収運動での買収金額はどれくらいか。
A:粤漢鉄道(広東と武漢を結ぶ)をアメリカから675万ドルで買い戻しています。
Q:この頃中国には何本鉄道が通っていたのか。
A:第一次大戦前で11本と思われます。
Q:義和団の乱には、どうして指導者がいなかったのか。
A:張徳成、曹福田といった首領がいるにはいたのですが、明確な目的意識もなく、指導力に乏しかったようです。
Q:円明園は、なぜ昔のままにしてあるのか。
A:1)修復する費用がない。2)英仏の犯罪行為を告発するため。 でしょう。
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